エア・ジョーダンという名称

奥さんがAmazonprimeで何か映画を見ているのをちらっと見たら、その画面には古い車が走り登場人物たちはオフィスで緑色に光るテキストベースのPCを利用していて電話がチリンと鳴ったら耳に当てると喋るところが口に来る何の画面もついていない受話器を取って話している。
これは80年代の映画なのかと思ったら、最近の映画との事。

私はその映像に目を奪われた。古い。そしてダサい。昔は本当にああだったのか? 
いやきっと誇張しているのだろう。自分が若い頃に見た「バグダッド・カフェ」だって「ベルリン天使の詩」だって、80年代だったけどもうちっと普通だし、普通に格好良かった気もするぞ。

因みに奥さんが見ていたのはナイキがマイケル・ジョーダンと契約してエア・ジョーダンを売り出すという映画「Air」だった。
私が見たのは最後の方のホンの少しの部分だったのだけど、映画自体は面白そうだった。

しかし、ヒット作「エア・ジョーダン」は面白い名前の靴だと思う。みんなよく買うよなぁ弟も持っていたし。
これが「空気吉川」なら名前だけを理由に忌避される事は予想に難くない。

自転車でもヘルメットが必要と言うけれど

今年の四月から、自転車に乗る時にもヘルメットを被らなければならなくなった。
しかし今の所、町を見渡してみても、スポーツ自転車は例外として誰も被る様子は見られない。
昨日も仕事で八王子~千葉間を車で移動したが、ヘルメットを被って所謂ママチャリに乗っている人はほとんどいなかった。
唯一、お婆さん一人が被っていたのだけど、その被っているヘルメットはスポーツタイプのいわゆるアミガサタケヘルメットでよく言えばカッコ良かった。でも多分今はそれしか手に入らないのだろうという印象を受けた。あのデザインは何とかならないものか。

自分のいる場所が自分で分かる事

始めて行く場所には独特の感覚があり、何を見ても新鮮に感じる。
この感覚はどの位続くのだろうかと思う。
例えば私は八王子も引っ越して来て5年になるのだけど、もう近所の大抵の場所に行っても馴染みの場所と感じる。でも、引っ越してきた当初はどこにいても、それこそ自分の家にいても自分は旅人のように思えた。

マウスの場合、特定の場所と連動して活性化する脳の場所が有る事が分かっているようだ。それには「場所細胞」という名前がついている。

人間にも似た仕組みは有るのではないかと思う。とすると、実際の物理的に自分の普段いる場所というのも人の脳を実際文字通りの意味で形作っているものであり、なので人にとって場所というものは相当大切なものなのではないかと思ったりする。

そしてこれは人から聞いた話なのだけど、家を新築したら同居していた親が自分の家にいることが分からなくなってしまい、折に触れて帰りましょう帰りましょうと言うようになってしまったというのを聞いた事がある。それは本人にとってはきっと辛い感覚なのだろう。

サンタクロースについて思うこと

発表会の飾りに使われた風船を頂いた。本当は花束のように整えられていたのだけど、帰りに山道を走っていたらカーブでバラバラになってしまったので自分で差し直したら結構難しくて、これは華道、いや風船道だと思った。

しかし、”メリークリスマス”である。若い頃は謎だった。何でクリスマスを祝う親は子供に、いずれは絶対にバレるサンタさんがおもちゃをくれるという嘘を付くのかという事が。

これは想像なのだけど、自分の子供にサンタクロースの嘘を信じさせる親の動機は、子供に自分の言うことを聞かせるための権威として利用したいという事なのではないかと思う。つまり、
「あたしの言うことを聞かないと、サンタさんがおもちゃをくれないよ」と言って子供を従わせたいのではないかと。

なら、何で親である当人がおもちゃのプレゼント与奪件を掴んで行使するというスタイルにしないかと言えば、理由はだいたい次のようなものだと思う。

・親の理不尽な要求に対する不平不満が直接親に向かう事を避けられる。
 なんせサンタさんのする事なので、自分はコントロール出来ないという体を装うことが出来るので。

・親の目の届かない所でも、想像上の監視の目が光っていると恐れさせることが出来る。
 サンタクロースの目はあまねく全地を見張っていると子供が勝手に想像を膨らまさせ、こちらが言う以上のことを恐れたり敬ったり喜ばせようと努力させることが出来る。

つまり、サンタクロースの嘘を信じる子供は勝手にいい子になってくれるのだ。凄いなサンタクロース。

夏が終わる

昔聴いた「夏が終わる」という歌の歌詞の中に「謎のような人の裏切り 白い鎧戸が閉じられる」という一節があって、それがいつまで経っても忘れられない。

人の一生を季節にたとえると、夏は大切な時期だ。その大切な時期には自分がしたいことを自分の責任でするのが良いと思う。何をしてても時は過ぎてしまう。

人のために尽くすのは、一般的に行ってそれは良いことだと思う。ただ、それは相手が本当に喜ぶ時に限り、その範囲に限る。
人を支配しようとしても、人の支配に甘んじても、良くないのはそれが言い訳になってしまうことだ。自分の人生の責任は自分自身で取らなければいけない。

寝る前に思いついたことを朝思い出すと恥ずかしい

夜寝る前、それこそベッドに入り眠りに落ちる前、頭の中には色々な考えが浮かんでくる。
別に考えているわけではないのに自動的に、まるで夢を見ているようで、時には自分で自分にインタビューして、それに対して自分で「うーん、そうですね」とか答えていて、お前は一体誰だ? と自分でも思う。

昨日の夜はっと気が付いたのは「辛いものを食べること、さらに、辛い料理の唐辛子の量が美味しく楽しんで食べる量を超える事、これは創造的行為ではないか?」というものだった。
単なる楽しみを超えて、追求のさらなる高みに向かい辛い道を進む事(からいではなくてつらいと読んでください)は、芸術を追求する姿勢に他ならない!

そして朝。何でこんな事で興奮していたのだろう? と思う。お腹も痛いし。

トコットのバンパーを取り替えた

車の後ろをぶつけてしまったので(スミマセン)、壊れたバンパーを交換した。と言っても、Yohooオークションで適合する中古部品を買って、文字通りプチプチと外して付けただけ。簡単なものだ。(安くはなかったけど)

バンパーと言えば私は小学生の頃、車に詳しい友達に、車のボディ全てをバンパーで作ったら衝突しても壊れない車が出来るのではないかというアイディアを語った事がある。しかし、彼が言うには「そんなの重くて走らない」との事だった。
そうなのである。昔の車のバンパーは厚い鉄板を折り曲げて出来ていてとても丈夫だけどとても重くもあった。

それに比べると今の車のバンパーはペナペナのプラスティックだ。軽いのはよいのだけど衝突の衝撃から車を守るという機能は殆どない。
どちらが良いのかは一概には言えないが、でもこんなにペナペナならば、いっその事車全体をゴムとかウルトラマンの表面とかのように柔らかくしてくれれば良いのにと思ったりもする。少なくとも、よく車を擦ったりぶつけたりする自分としてはそっちのが嬉しい。

因みに今回の経験で解った事として、どうもバンパーにヒビが入ると車の走りが変わるらしいというものが有る。具体的に言うと割れている方がスピードが出る。
理由は、上の写真だとヒビは手で押し込めてあるのでわかりにくいが、ヒビはタイヤハウスの上に有り、ここから空気が抜ける事が空力に良い作用をしていたからなのではないかと想像する。

しかしまたこれには、傷の入った車を走らせることの心理的作用もあるのかもしれない。傷を人に見せびらかしたくて無謀な運転をする心理だ。もちろんこれは無意識下のものであり、この手の欲望は前頭葉が抑えているものなのだけど、トコットのアクセルペダルは敏感なのである。

平和なのが望み

ブログの更新についてはずいぶん間が空いてしまった。この間、書くことが何もなかったのかというとそうでもなく、お陰様で仕事はずっと春夏冬中(商い中)だったし、そうすると当然いろいろなことも有る。

例えば、この間は仕事中に自分の車をぶつけてしまい、精神的にショックを受けた。
そんな自分を元気づけようと帰り道に海に寄った。
そこの売店でビリヤニ(スパイスで味付けをした美味しい炊き込みごはん)を注文したら売り切れだった。それは前から食べたいと願っていたものなので大変残念に思った。
仕方なく、せめて貝でも採れたら慰めだと浜辺で穴を掘ったのだけど、食べられる貝は出てこない。
ふと我に返り周りを見ると、自分のようにスーツに革靴で海に来ている人は誰もいないかった。

という具合で、ことブログのネタについては事欠かない。もともと自分は物事が出来ない割に色々勝手な妄想はするタイプなので、傍から見ると人生まるで落語なのである。

だがしかし、ここ最近の世界情勢をみるにつけ、自分のそうした日常は全くくだらないものだと思えてしまう。本当にどうでもいいと思う。

とは言え、ほとぼりが冷めたらまたくだらない日常の感覚に戻るのかもしれない。いや、戻って欲しい。自分のことばかり考えるのは良くないけれど、でも自分の手の届く範囲で自分のことを存分に考えて笑って暮らせるのは平和の恵みだ。

終わったこと、進行中なこと

一年が終わろうとしている。

まだ蕾の付いているバラの剪定を行った。この、レディ・ヒリンドンはステムが細くて新芽のような赤い色をしており、花器に挿すと映えると思う。
花の何が良いかといえば、彼らはこちらの暮らしとはあんまり関係なく生きているという事で、季節が変わり時間が過ぎてゆく事を強制的に知らしめる所が良いと思う。誰が見ていなくても花は咲く訳だ。
しかし、こんな写真を上げると優雅な暮らしをしている様に見えるけど、花瓶といえばウチにこの一つしか無く、これが有る前はコップに挿していたし、この花瓶にしても近所のホームセンタームラウチホビーが潰れる時に買ってきたものだ。いらんものを買ってきたとウチの奥さんには叱られたし。

コーヒーメーカーのポットが割れた話の続き。壊れたコーヒーメーカーに付属のドリッパーを使い続けるのもカッチョ悪いし第一新しく買ってきたポットとは全然形が合わなくて不安定だったので、100円ショップで売っていたこのワイヤー式のドリッパーを買ってみた。

これは言わずもがな、ユニフレームが山用品として出しているもののコピー品だ。一見不安定に見えるが実際不安定で、一見脇からコーヒーが漏れ出しそうな感じがするけど事実フィルターの継ぎ目あたりからも雫が滴る。つまり見たとおりの品だ。
味は心なしか濃いめに出る感じがする。

禁止の禁止は許可なのか?

これは、八王子駅南口広場にある案内板の写真。(念の為、画像加工で作られたフェイクではなく実際の画像で、昨日撮影された)

禁止事項として何某かの禁止事項がリストアップされている。これはつまり、その行為を禁止する事を禁止している事になるのではないか?
私はプログラマーという職業は10年以上前に辞めてそれ以来していないのだけど、しかし今だにこの手の記述の論理的構造が気になって仕方がない。

所で、禁止する事を禁止する事は、すなわち許可を意味する事になるのだろうか?
理屈の上ではそうなるのだろうけど、実際はそうならない事が殆どだと思う。それは空気とか雰囲気とかそういうものでかかる圧力が有るからで、そういう事情を知ったのはプログラマーを辞めてから。