窓から見える干し柿

親戚から渋柿を頂いたので、干し柿にする為に軒先に吊るしている。
と言っても特別な事をしている訳ではなく、ただ皮をむいて干しているだけだ。これで美味しいお菓子が出来るのだから楽しい。

それにしても、食料がいつも見える所にあるというのはなかなかイイ感じがする。これは多分、本能的に嬉しさを感じているのだと思う。

Will You be my yellow?

自分は英語は全く出来ない。I Can’t speak English.No,It’s honest.I’ve Nothing any more.Sorry. である。
実際、中学生の時はほとんど授業にはついて行けず、高校でも卒業時に英語の先生から「余裕でクリア」と評価される成績だった。(クリアが目標レベルだったという事です)

第二言語、特に英語が出来るというのは、今の社会で生きて行く上で、とりわけ自分から何かを発信しようとする人間にとっては必要な事だと思う。そういう意識だけは有る。
なので、自分も勉強していない訳では無くて無料で聴けるNHKのラジオは朝の15分聞いていたりする。
もう随分長く聞いている。「ハートでつかめ! 英語の極意」が朝の時間に始まったのは何と5年前。途中お休みもしたけれど、それより前にやっていた遠山顕の「英会話入門」から聞いていたので、もしかするとラジオだけは都合10年は聞いているのかもしれない。しかしベッドの中で寝ぼけて聞いているのがいけないのか、これが全く出来るようにはならない。

嘘ではない。時たま奥さんがふざけて英語で何かを問いかけてくる事が有るのだけど、こちらからは何も喋れない。それでムキーッとなっている私を見て喜ぶ君は意地悪バンパイアかと思う。

夜、床についてから眠りに落ちるまでの少しの時間、頭の中で複数の誰かが喋っている声が聞こえることが有る。勿論これは幻聴であり、自分の頭が作り出した音声である。この喋っている内容は大抵、自分で聴き取ることも出来る。日本語で喋ってくれている時は・・・
でも彼らは英語で喋っている時がある。自分の頭が作り出している音声のはずなのに、これが何を言っているのか自分でも全然分からない。

なぜ私は私であるのか

昨日、蔦屋書店で行われた 書籍「なぜ私は私であるのか」の著者であるアニル・セスを招いたトークショウに行ってきました。(勿論翻訳付きです(^^;)

彼は「知覚は制御された幻覚である」と言います。
調べてみるとどうも、意識が見るものや感じるものは予想がかなり入っているそうで、意識は感覚から入ってきた信号を元に作られると言うよりは、感覚から入ってきた情報を元に次を予想して予め作られているらしいのです。
研究者である自分も腑に落ちないなんて言っていました。

本はまだ読みかけなのですが、一般書ですので書き方は平易でとても読みやすく、それでいて内容は非常に非常に面白いです。

因みに後ろの本はルーディー・ラッカーの「人工生命研究室」
アニル・セスが本の中で「ウェットウェア」という言葉を使うので。

一年365.2425日

最近、ウチの近所にドラッグストアが出来たのだけど、そこは売っている物の値段が常時それぞれちょっとづつ安くて、どうもその値付けが売りのお店らしい。
今の時代、特売の広告を打って集客をするより、店に他店より何を買っても安いという印象を持たれる方が効率的なのかもしれない。
それに、広告を打つとその地域の店全店がその商品の安売りをしなければいけなくなるが、広告を出さなければ店舗ごとに細かく値付けをする戦略も取れそうだ。

という事で何かと話題に上るお店なのだけど一つ気になることがあって、それはそこのキャッチコピーが365日安いという所。365日とは多分一年の事だ。とすると(ほぼ)4年に1度の閏年はどうなるのだろう?

とは言え、365は広く人口に膾炙する数字であり、それだけキャッチーでもある。私はある歌手が真ん中にステージの有るライブ会場でグルっと365度と言ったという話が愛おしいまでに忘れられない。

ニョッキを食べた

ニョッキというのは、じゃがいもと小麦粉をこねて茹でた食べ物の事だ。日本で言う所のスイトンをイメージして頂けると・・・味はかなり違う。

料理当番の娘が作ったのだけど、本人的にはどうも微妙だったらしい。
私はこの後美味しく頂きました。

勘違いと思い込み

蒸し暑い朝の事、家の外から、ディーゼルエンジンのようなカラカラという音が聞こえていた。
実はその音の出どころは隣の家のエアコンの室外機で、故障でもしているのだろうか、それが結構大きな音がしているのだ。

でも私ははじめのうち、その音が室外機のものだとは分からなかった。
分からなかったと言うと不正確で、より正確に言えば、マツダのディーゼルエンジンのアイドリングの音だと思っていた。
昨日の夜、隣の家に親戚がそのマツダの車で来て、今朝になって出かける前に車のエンジンをかけてクーラーで車内を冷やしているのだろうと思っていたのだ。
我ながら随分ディテールまで設定された想像だと思う。

しかし、何時間経ってもその車は出発しなかった。(当然だ)
流石に何だろうと思ってチラッとは外を見るのだけど、でも頭にはその「マツダのディーゼル車に乗ってやって来たお隣のご親戚」というストーリーが出来上がってしまっているので、ああその人は車のエンジンを掛けたことを忘れているんだろうな、それで今朝ごはんを食べているんだろうな。ご飯を食べると前にしていた事忘れるよな。とか頭の中で勝手に話を長くしていた。

思い込みと言うのは本当に有害だと思う。

写真が選出されて嬉しかったりした

私の写真が下記リンクの「YSS月間審査員賞 2022年6月」に選出された。
大変名誉なことである。

https://note.com/yousawscenes/n/n40709c14c6f4

実の所私は写真コンテストには結構応募しているのだけど、滅多に入選しない。それだけにウチではこの選出は大ニュースなのである。
奥さんなぞ大変喜んでこのページのリンクを実家の親に送りつけていた。

因みに選ばれたのはこの写真。

しかしこの写真は一体、何なのでしょう?
この点選評にも「語弊を恐れず言うなら、見る人によっては「つまらない写真」に映るかもしれません」と書かれている。それを読んだ奥さんも、その通りね! と強く同意していた。そこだけ読まないで欲しい。

モロモロ豆乳のスープ

昔読んだ小説の中に、登録飲料の話が出てきたのを何となく思い出す。
調査員の報告書という体を取り、国民は一定の年齢に達したら市販のソフトドリンクの中から好きなものを一本選び、それを自分の飲料として国に登録する事が義務付けられている事が報告されるという、何ともけったいな話だつた。
でもそれを読んだ時何となく解る気がした。自分も子供の時、初めて飲む缶ジュースがとっても美味しくて気に入ったら「これボク専用!」とか思ってたからだ。
味と言うのは、人の深い深い所で分かちがたく個人に結びついているような気がする。誰でも心の底に、僕の味私の味が有るのではなかろうか?

写真は昼食に食べたシェントウジャンというスープで、温めた豆乳に酢を加えて固まった所を食べる。固まりかけの茶碗蒸しのような食感に濃厚な豆乳の味がして、大変美味しい。ボク専用!

読んだレシピには味付けザーサイを入れると有ったので入れた。すると、調味料の味が溶け出し、まるでレストランのような味になった。
レストランと言っても頭にファミリーと付くレストラン味だけど。

こどもチャレンジは一生の財産

これは娘が顕微鏡を覗いている所。そしてこの顕微鏡は、娘が子供の時取っていた「こどもチャレンジ」の付録だ。

こどもチャレンジには毎回このような付録が付いており、色々楽しい実験が出来ていた。それは良い体験だったようで、人の人格の一部を形成したと思う。どんな人格が形成されたかというと、二十歳を過ぎても家に入ってきた羽蟻を捕まえてプレパラートを作り観察する人になった。

因みにこの顕微鏡はなかなかの性能で、蟻の複眼が高解像度かつ立体的によく見える。

結末は予定調和的予想外

ドラマツルギーというものは、この現代において手垢にまみれ、手段は使い果たされてしまったものなのかもしれない。意外な結末、例えば内通者は実は物語の初めっから主人公の近くにいた信頼できる(と読者は思っていた)仲間だった、とか、犯人は実はいつも行動を共にしていた警官だった、とか。ずっと信頼して使ってきた機材が、肝心なときに壊れて主人公がピンチに至る(もしくは重要人物が死ぬ)というのも定番の展開だ。

家庭で使うミシンが壊れたって誰も死にはしないが、作ろうとした鞄が作れなくなったという展開に機材の故障と言うのはいかしていると思う。何が起きたかと言うとつまり、20年間使っていたミシンが、鞄を作ろうとした今、よりによって壊れてしまったという事だ。

このありがちかつありきたりなストーリーが現実に目の前に展開するとは、事実は小説なのだろうか?