ちょっと前の話なのだけど、神保町のPARAで面白い話を聞いた。
永遠には二種類有る。一つはいつまでも終わらないという意味での永遠。もう一つは、時間を超えて変わらず不滅であるという意味での永遠。
ニュアンスが伝わりにくい。例として挙げられていたのはインドのカレーを作る鍋の話。
インドでは竈に二つの鍋がセットされていて、その中ではいつもカレーのようなものが作られている。昨日作ったカレーに何かを足してさらに別の料理を作る。そしてそのように作り続けて滅多にそれは終わらないのだそうだ。使って減ったらまた足すその様子はまるで、100年使い続けられた伝統のウナギのたれのようだ。これがいつまでも終わらない永遠。(インドの鍋は実際にはたまには洗うらしいけど)
でも、もう一つの、時間を超越した普遍性という言うのはちょっと日本人には難しい。
我々の感覚においては時間の経過は、覆水盆に返らず的に過ぎ去った時間は二度と戻らず、一寸先は闇的にこれから来る未来は未確定かつ予測不可能という気がする。
何かについて「永遠」と語られる時、それが未来永劫不変であるという予測が必然的な必要性としてその語はその意味を伝える事になる。でも、諸行無常有為転変の世の中に身を置いている感覚が身に付いている者からすると、不変という感覚はにわかには受け入れがたい。
キリスト教のうちある宗派は「決定論」を支持しているそうだ。その人たちの世界観によると、世界の出来事は全てすでに決まっていて、すでに書き終えられた本のようなもののように感じられているらしい。そして、現在という時間はその本の一行一行を読み進めている事に相当する。
とは言え現在を生きる我々は時間の進行にとらわれており、そこから逃れることが出来ず、また確定されている未来を知る事も出来ない。そういう意味では決定論と非決定論のどちらも、人々の日常生活においては何も変わる事は無い。
ただ時間を超越した神だけはその世界の時間においても空間においても偏在している。という事で、そういう意味で真の意味で神は永遠という事らしい。今を生きる我々にしてみれば日々物事は移ろいゆくもののように見えるが、実際には映画を再生しているように、決まったとおりに事は進んでゆくだけだ。つまり、その映画を所有している神から見るといつ見てもどこを見ても何回見ても変わらない世界は全体としては「不変」と言える。