「AIみたい」という誉め言葉とハルシネーション

これはこのあいだ家族で行ってきた奥多摩湖。この写真を見た家族からは「凄い、なんかAIみたい」と言われた。(因みに写真が白っぽいのは50年前のレンズだからです)

生成AI。私が最初に見た画像は宇宙服を着た人が馬に乗っている絵だったろうか? googleの研究室が作った、ろいろな所がグルグルと渦巻いて至る所に目玉が描写される悪夢のような絵も覚えている。
それが最近はどうだろう。一見写真と見まがうような美男美女の画像。それにまるで本物のようなフェイク画像や映像が世間に出回っている。イラストについてはもう、特にラフスケッチに関しては人の手で描かれたものなのかそれとも生成AIによるものなのか、私には見分けが付かない。

しかも、生成AI、特に最近のモノは本当にセンスが良くて驚く。もう本当に。
人間が撮影した写真をAIみたいと言って褒めるのは、現在の所冗談のようにも聞こえるが、これはそのうち冗談ではなくなるのかも知れない。今は産業革命にも匹敵する時代の変革期と言っても良いと思う。

ところで、生成AIと言えば今のところ避けられないのがハルシネーションである。
ハルシネーションとは、AIが抱く妄想の事。生成された成果物の中にシレッと妄想による嘘が混じっていて、しかもあまりにも自然に、堂々と、自信満々に書かれるので、それを読む人の側に正しい知識が無いと騙されてしまうあれである。
これは本当に恐ろしいもので、今のところAIに重要な仕事を任すことが出来ない大きな理由でもある。とは言え、ハルシネーションは人間でも起こす。と言うか、人間の生活は妄想の上に成り立っていると言っても過言ではない。

私は先日、興味深い夢を見た。
その時、私は死んだはずの父親となぜかハードオフにいて、中古のカメラを眺めていた。
父はショーケースの中に有るカメラの一台を、昔見た映画の中で登場人物が使っているのを見た事が有ると言った。そのカメラはニコンF3のハイアイポイント、しかもモータードライブにストロボグリップまで付いている物だった。

彼が何の映画だったか思い出そうとしていたので、この場でスマホを使ってググって見ようという話になった。それで、ならこれを使えと言って父から手渡されたスマホは、スマホでは無くて携帯ゲーム機だった。
なんだこれは、こんなのではググれないよ、もうイイよ自分のを使うよ。と言って自分のスマホでググろうとした。しかし何故か検索の画面にたどり着くことが出来ず、もうどうしてもネットで検索することが出来ないでいた。非常に焦った。

この焦りと苦しみがMAXになった瞬間、目が覚めた。

目覚めてすぐに感じたのは「ああ、人間の脳というのは嘘が付けないものなのだな。仮に夢の中でググる事に成功しても、出てくる情報は自分が知らないものに関しては嘘なのだ。だから今回、googleの画面を見ることが出来なかったのだ」という事だった。
しかし今、枕元にはいつものスマホが有る。
私は早速、夢の中で見た情報をGoogleで検索してみた。すると、件の映画は松田優作がカメラマン役を演じている映画「かまいたち」という作品であることが分かった。

・・・という所までが夢だった。つまり、夢の中で見たググって出て来た情報というのは大嘘の嘘八百、ハルシネーションだ。

筋トレは全ての問題を解決する(かも)

1か月くらい前、保育園のサマーキャンプを撮影する仕事の問い合わせを頂いたのをきっかけに筋トレを始めた。
その2日間のサマーキャンプは冬はスキー場となる場所で行われるのだが、子供たちを楽しませるイベントはみんなそのスキー場の斜面を登った上の方で行われる。そして参加する子供は何グループにも分かれて別行動をするので、カメラマンは一回登るだけでも大変なその丘を一日に何往復もする事になる。

私は今年54歳。正直自分でも年を感じる今日この頃だった。特にコロナに掛かってから(今まで3回も感染した)肺の調子が完全に戻らなくて、今までは自転車で普通に登れていた坂も息が切れて登れなくなってしまっていた。というか、昔は大好きだった自転車も体力が落ちてしまって全然飛ばす気力が出てこない。

という訳で、そのオファーは受け、そして筋トレを始めた。
というか、普通はこういう時「という訳で」という接続詞は使わないものだ。奥さんには何でそんな仕事を引き受けたのよと言われた。自分でもそう思う。

トレーニングというのは何でも、最初は辛いものだ。
やっているのは軽いダンベルを持って屈伸運動30回1セットを1セット…うーむ。少ないがしかし、息が苦しくて続かない。

所が、ひと月くらい経った頃、自分の中で何かのスイッチがパチッと切り替わった気がした。
体の底から若い力が湧いてくる。全ての景色が美しく感じる。
何か変だ。

たまには写真の話を

たまには写真の話を書こうと思う。何と言ってもここは写真屋のブログなのだ。
実は先日、ある写真家に私の写真を見てもらい、アドバイスを頂いてきた。X(旧Twitter)でレビューしますという案内があったので、申し込んでみたのだった。

その人はXでは自分のレビューは厳しいと述べていたのだけど、実際に行ってみるとそこまでけちょんけちょんというほどでもなくて、むしろ褒めるべきところもちゃんと見つけて褒めて下さる感じで、きれいに撮れている。このままメーカー系ギャラリーに応募しても問題ない。との事だった。

以下は教えてもらった事の要約。覚書として書いておこう。

構図が雑 現場ではもう少し立ち位置とか角度とか色々試してみるべし。この手の写真の場合は少し広めに撮っておき、最終的にトリミングで完成度を上げる。

種類が単調 展示を考える場合、写真にもっとバリエーションが有った方が良い。現場ではもう少し粘って、色々な角度、寄り引きを試すといいかも。脚立を持って行くと視点が変えられるのでお勧め。
なお普通この手の写真は良い天気と光を狙って撮るものだけど、写真のコンセプトによってはその限りでは無く時間帯や天気がバラバラな事も必然的であるのなら問題ない。写真の中には偶然性を重んじるタイプのものも有る。その際はステートメントで自分の狙いを伝える。

ステートメントについて 文章そのものは問題なくて面白いけど、写真とあまり合っていない。
写真は内容も撮り方も軽めだから、ステートメントも概念的なものだけでは無くて、例えばその場所を選んだ経緯などを書いた方が良い。そこにたまたま行ってみたのならその事を、場所を選ぶのに際してGoogleマップを使ったのならそういう事も書いて、写真とステートメントのつり合いを取ると良い。

展示方法について 横一列は伝統的なギャラリーでは良い方法だが、あなたの写真は内容が軽いから展示もカジュアルな方が合う。様々な展示を見て参考にしながら、展示案を工夫しなさい。

応募について 審査に際しては実績も見られるので、コンテストには積極的に応募するべし。応募要項をよく読めばこの手の写真が受かる可能性のあるコンテストも見つかるはず。
有料の何とかアワードであっても入選は実績になる。
また、展示はしておいた方がいい。探せば週4万位から借りられるギャラリーは有る。何なら地元の市民ギャラリーでも、展示の経験が無いよりずっと良い。
ZINEを作ったのならそれも経歴に書け。

その他 他の人の写真を見るのは良い勉強になる。特に東京都写真美術館には定期的に行って、目を養いなさい。無料で見られるギャラリー巡りも良いけれど、それは玉石混在だ。勉強の為ならぜひ都写美も見ておきなさい。

カメラバッグとナスの購買行動に共通する何か

写真の右に写っているのはエツミのトゥルーリープロというバッグ。もう10年以上使っているのだけど、最近角の所の縫製がほどけてきてしまった。
それで最近左に写っているバッグを買った。同じものを買ったつもりだったのだけど、届いてみたら一回り小さかった。これはこれで良い状態なので使うつもりだけど、でも今の運用の用途には少し小さい。
今までと同じカバンが良いなぁと思いながらメルカリを探していたので、これを見つけた時はすごく喜んでしまって興奮してすぐに注文してしまったのだけど、やはりよく確認するべきだった。

この巨大な長茄子は近所の無人販売で買った。大きさの比較のためにフライパンの上に置いているが、このフライパンも直径30cm以上の大きさが有る。
何でこんなに沢山買ったのかというと、これが棚の奥の段ボール箱の中に入っていたからで、当初の立ち位置からはナスのヘタの部分とかその反対の部分とかしか見えておらず、全体のサイズは分からなかったから。
料金は「3本100円」と書いてあった。私はてっきり、ナスと言えば八百屋で普通に売っているサイズだと思い込み、じゃあ6本買おうと料金箱に200円を入れた。
よく確認するべきだった。

久々のコルク栓

コルク抜きを使わなくなってもうどのくらい経つだろう。
私の飲む安い価格帯のワインは、今はみんなスクリューキャップだ。と言うか、いつも飲んでいるのは紙のパックかペットボトル入りのものなので、ガラス瓶に入りコルクで栓をしたワインはもう手の届かない高級品という感じさえする。

写真のこれは、近所のスーパーで半額になっていたもの。瓶の端っこに写っているのは半額のシールだ。でも半額と言っても普段のワインよりちょっと高かった。
でもまあ、物価高の昨今、飲酒自体がもう奢侈な行為という感じさえする。なら思い切って、これを買っても良いだろうと思った。買っても買っても治まらない欲望の連鎖を止める事が出来るのは「浪費」だと哲学者の国分浩一郎も書いている。安物を買うより高級品を買った方が満足できるのである。

さて気になるお味の方だけど、濃いめでシャルドネの甘味が残る仕上げは大変おいしかった。良かった。久々にコルク抜きを使った甲斐があったというものである。

でも何で最近コルク栓のワインが少ないのだろうと思ってググってみたら、気になる記述を見つけた。以下引用

全く同じ赤ワインをそれぞれコルクとスクリューキャップで打栓された容器に詰め替えて、被験者140人に飲んでもらったそうです。その所、中身は全く同じなのに113人はコルクで打栓されたワインを「美味しい」と答え、残りの27人だけがスクリューキャップのワインを支持したそうです。

https://www.enoteca.co.jp/article/archives/4201/

1980年台って一体何だったのだろう?

これは横浜市神奈川公会堂のホールのドアの一部。何ともレトロなデザインだ。

これは小ホール入り口の受付窓口。コンクリートを粘土細工のように直接整形して機能を実現している。こういうデザインは最近見なくなったと思う。ここはWikipediaを見ると1978年会館だそうで、道理でレトロな印象を受ける訳だ。
しかしこの、古いという感じの正体は一体何だろう? 流行と飽きなのだろうか? これは考えてみると不思議な感覚だと思う。

娘の話によれば一部の人たちの間で今、1980年代の音楽やファッションが流行っているそうで娘もまるで昔のアイドルみたいな髪型と服装で出かけたりしている。私にしてみれば’80はまだ大昔という感じはしないと言えばしないのだけど、でも彼女たちにしてみれば生まれる前だ。体の中にその当時の感覚は無くて、見るものは目新しい未知の情報なのだろう。

Youtubeには’80年代の雰囲気を再現した動画が散見され、見ると案外よく出来ていて楽しい。
その中でもジンジャールートのPVは傑作で、手書きのテロップとか映像管の残像で光が長く伸びる映像が再現されていて本当に手が込んでいると思う。

八王子でもバナナの実が出来るらしい

子供の頃TVで見た映画の中の一つに、人間くらいのサイズの植物が何故か根っこを引き抜いて歩きだし、人間を襲い始めるというものが有った。それはまあひどい映画で、お約束通りその植物に対して一通り試される武器は皆効果を上げず、努力の甲斐なく人がどんどん殺られてゆくのである。電気柵に触れて丸焦げになりながらなお辺りを見回すその植物達の様子には、TV越しながら本当に恐怖を覚えた。(もしかしてそれは夢で見たのかもしれないと心配になったのでググってみた所、その映画の名前は「The Day of the Triffids」との事)

なぜその映画を思い出したかというと、ウチから歩いてすぐの所にある元八王子市民センターの敷地でその植物に姿がそっくりな木を見かけたからだ。アップロードした写真がそれになる。
この枯草のような立ち姿をしているものはバナナだ。よく見ると先端に花が付き実がなっているのが分かる。一番先っぽに付いているものは花のつぼみで、花弁が一枚づつ開いた内側に未熟なナナがずらっと並んでいる。因みにこの蕾の部分も野菜のように食べることが出来て、でも特段味は無くてタケノコのような食感だそうだ。

しかし、バナナの木が観賞用として庭に植えられているのは極たまに見かけるけど、実が成っている所は初めて見た。八王子は東京都の中でも特に寒い場所なはずだ。それなのに南国の植物が冬を越し、こうして曲がりなりにも身を成らせているのは地球温暖化の影響だろうか?

シソを庭に植えるとどうなるか

庭にハーブが植わっているというのはなかなか良いもので、食生活が本当に豊かになる。
ウチにはベイリーフ、ローズマリー、タイムが有って新鮮なものが一年中使え、そのほかにもサンショウとミントとそれから、シソが有る。

ウチではシソは、そうめんの上に散らしたり、和風のパスタの上に乗せたりと、何かと使う機会が多くて、これが庭にあると重宝する。これは食材が冷蔵庫の中に常備されているのと同じ事だ。というか、冷蔵庫の方が歴史的に後で、生の本物が身近に有るという事が冷蔵庫にとってかわったのだろう。それを食べたいときに食べられるというのは、以前は最高の贅沢だったはずだ。

それでも、「食べたければ買ってくれば良いではないか」という人に私はこう言いたい。

別に買ってまで食べたいものでもない。
と言うと誤解を与えそうだけど、だってシソって勝手に生えて来るし、それこそタダで好きなだけ食べられるものだから。本当です。見よこのシソの生命力。

昨日もこの小さい葉っぱを摘んでパスタに乗せて食べたのだけど、こんな小さいサイズでも香りは鮮烈で、とても美味しかった。

しかし、一か月空いたブログの更新のネタがまたウチの庭の話というのは何というか、ウチの生活は平和なのだろう。世界も平和になってほしい。

AIは原種チューリップを判別した

ウチの庭に見慣れない花が咲いている。何だろうこの花はと思ってGoogleレンズで調べてみたら「原種チューリップ」という答えが得られた。何のことは無い、去年自分でここに植えた球根が花を咲かせていたのだった。
私は別に、ここに球根を植えた事を忘れていた訳では無いのだけど、でもチューリップと言えばてっきり例の保育園児が描くような、蕾のような形が維持されるあの花が咲くとばかり思っていた。なのでこの藪からスティック土からフラワー的な花の形には不意を突かれたという訳だ。しかし綺麗な花だ。

それにしても感じるのは、Googleレンズというアプリケーションの凄さ。画像を写真に撮るだけで花の名前が分かってしまう。
生成AIが急速に発展して来ている昨今、それが人の仕事を奪うのではないか、いや奪うのは確実だと議論されているけれど、それより前にすでに画像認識AIは社会を変えてしまっているようだ。このアプリはもう花の名前の鑑定士という職業をほぼ死に追いやってしまった。誰にも気づかれずひっそりと。(そんな職業が有るのか?)

新しい村で蕎麦粉を買った

仕事帰りに、宮代町の「新しい村」に寄ってみた。

名前からして武者小路実篤の「新しき村」を連想させるのだけど、パンフレットを見る限り無関係のようだ。しかしそこには、”新しい村にかかわる全ての人が「農」という地域資源を媒介として「新しいコミュニティ」や「新しい価値観」を創造しそれらの仕組みを町全体に広げていく拠点にしたいという考えから名づけられました”と書いてあって、単に農産物を販売する道の駅のような施設ではなく、深い思想に基づいて作られ運営されている組織らしい。

とは言え、ここは売っているものも雰囲気も道の駅と言う感じでだれでも気軽に寄れる。そして値段が安い。そば粉が売っていたので買ったのだけど500gで550円だった。

そば粉は若干緑色をしていた。これはおいしいに違いない。早速蕎麦がきにして食べた所、香りが強く味も濃く、大変おいし。

蕎麦がきを知らない人がいるかもしれないので念のため書くと、これは蕎麦粉に熱湯を注ぎ、手早くかき混ぜただけの原始的な料理。出来上がりは丁度、何も入っていないお好み焼きの表面を剥いだ内側の部分みたいな感じになる。
生醤油とワサビを付けて食べるのが一般的だ。想像通りの味ではあるのだけど、これが蕎麦粉の味を純粋に楽しめるものだとして蕎麦好きの間では食べ継がれている。

所で、ふと「蕎麦がきが有るのにうどんがきが無いのは何故だろう」と思った。それで、小麦粉でうどんがきを作ってみた。写真を撮りながらの作業だったので少々ダマダマが出来てしまったが、やってみると案外それらしいものが出来る。
味も絶望的と言うほどでも無くて、例えば非常時なら小麦粉の一つの食べ方のとして有り得るかもしれない。とは言え蕎麦がきが蕎麦粉のおいしい食べ方として積極的に選択肢に入るのに対しうどんがき(とここでは呼ぼう)は、何もこんな事をしなくても他にもっとおいしい食べ方が有るでしょうという感じで、現在の世の中の成り立ちにはそれなりに理由が有ると知った。