カメラバッグとナスの購買行動に共通する何か

写真の右に写っているのはエツミのトゥルーリープロというバッグ。もう10年以上使っているのだけど、最近角の所の縫製がほどけてきてしまった。
それで最近左に写っているバッグを買った。同じものを買ったつもりだったのだけど、届いてみたら一回り小さかった。これはこれで良い状態なので使うつもりだけど、でも今の運用の用途には少し小さい。
今までと同じカバンが良いなぁと思いながらメルカリを探していたので、これを見つけた時はすごく喜んでしまって興奮してすぐに注文してしまったのだけど、やはりよく確認するべきだった。

この巨大な長茄子は近所の無人販売で買った。大きさの比較のためにフライパンの上に置いているが、このフライパンも直径30cm以上の大きさが有る。
何でこんなに沢山買ったのかというと、これが棚の奥の段ボール箱の中に入っていたからで、当初の立ち位置からはナスのヘタの部分とかその反対の部分とかしか見えておらず、全体のサイズは分からなかったから。
料金は「3本100円」と書いてあった。私はてっきり、ナスと言えば八百屋で普通に売っているサイズだと思い込み、じゃあ6本買おうと料金箱に200円を入れた。
よく確認するべきだった。

久々のコルク栓

コルク抜きを使わなくなってもうどのくらい経つだろう。
私の飲む安い価格帯のワインは、今はみんなスクリューキャップだ。と言うか、いつも飲んでいるのは紙のパックかペットボトル入りのものなので、ガラス瓶に入りコルクで栓をしたワインはもう手の届かない高級品という感じさえする。

写真のこれは、近所のスーパーで半額になっていたもの。瓶の端っこに写っているのは半額のシールだ。でも半額と言っても普段のワインよりちょっと高かった。
でもまあ、物価高の昨今、飲酒自体がもう奢侈な行為という感じさえする。なら思い切って、これを買っても良いだろうと思った。買っても買っても治まらない欲望の連鎖を止める事が出来るのは「浪費」だと哲学者の国分浩一郎も書いている。安物を買うより高級品を買った方が満足できるのである。

さて気になるお味の方だけど、濃いめでシャルドネの甘味が残る仕上げは大変おいしかった。良かった。久々にコルク抜きを使った甲斐があったというものである。

でも何で最近コルク栓のワインが少ないのだろうと思ってググってみたら、気になる記述を見つけた。以下引用

全く同じ赤ワインをそれぞれコルクとスクリューキャップで打栓された容器に詰め替えて、被験者140人に飲んでもらったそうです。その所、中身は全く同じなのに113人はコルクで打栓されたワインを「美味しい」と答え、残りの27人だけがスクリューキャップのワインを支持したそうです。

https://www.enoteca.co.jp/article/archives/4201/

1980年台って一体何だったのだろう?

これは横浜市神奈川公会堂のホールのドアの一部。何ともレトロなデザインだ。

これは小ホール入り口の受付窓口。コンクリートを粘土細工のように直接整形して機能を実現している。こういうデザインは最近見なくなったと思う。ここはWikipediaを見ると1978年会館だそうで、道理でレトロな印象を受ける訳だ。
しかしこの、古いという感じの正体は一体何だろう? 流行と飽きなのだろうか? これは考えてみると不思議な感覚だと思う。

娘の話によれば一部の人たちの間で今、1980年代の音楽やファッションが流行っているそうで娘もまるで昔のアイドルみたいな髪型と服装で出かけたりしている。私にしてみれば’80はまだ大昔という感じはしないと言えばしないのだけど、でも彼女たちにしてみれば生まれる前だ。体の中にその当時の感覚は無くて、見るものは目新しい未知の情報なのだろう。

Youtubeには’80年代の雰囲気を再現した動画が散見され、見ると案外よく出来ていて楽しい。
その中でもジンジャールートのPVは傑作で、手書きのテロップとか映像管の残像で光が長く伸びる映像が再現されていて本当に手が込んでいると思う。

八王子でもバナナの実が出来るらしい

子供の頃TVで見た映画の中の一つに、人間くらいのサイズの植物が何故か根っこを引き抜いて歩きだし、人間を襲い始めるというものが有った。それはまあひどい映画で、お約束通りその植物に対して一通り試される武器は皆効果を上げず、努力の甲斐なく人がどんどん殺られてゆくのである。電気柵に触れて丸焦げになりながらなお辺りを見回すその植物達の様子には、TV越しながら本当に恐怖を覚えた。(もしかしてそれは夢で見たのかもしれないと心配になったのでググってみた所、その映画の名前は「The Day of the Triffids」との事)

なぜその映画を思い出したかというと、ウチから歩いてすぐの所にある元八王子市民センターの敷地でその植物に姿がそっくりな木を見かけたからだ。アップロードした写真がそれになる。
この枯草のような立ち姿をしているものはバナナだ。よく見ると先端に花が付き実がなっているのが分かる。一番先っぽに付いているものは花のつぼみで、花弁が一枚づつ開いた内側に未熟なナナがずらっと並んでいる。因みにこの蕾の部分も野菜のように食べることが出来て、でも特段味は無くてタケノコのような食感だそうだ。

しかし、バナナの木が観賞用として庭に植えられているのは極たまに見かけるけど、実が成っている所は初めて見た。八王子は東京都の中でも特に寒い場所なはずだ。それなのに南国の植物が冬を越し、こうして曲がりなりにも身を成らせているのは地球温暖化の影響だろうか?

シソを庭に植えるとどうなるか

庭にハーブが植わっているというのはなかなか良いもので、食生活が本当に豊かになる。
ウチにはベイリーフ、ローズマリー、タイムが有って新鮮なものが一年中使え、そのほかにもサンショウとミントとそれから、シソが有る。

ウチではシソは、そうめんの上に散らしたり、和風のパスタの上に乗せたりと、何かと使う機会が多くて、これが庭にあると重宝する。これは食材が冷蔵庫の中に常備されているのと同じ事だ。というか、冷蔵庫の方が歴史的に後で、生の本物が身近に有るという事が冷蔵庫にとってかわったのだろう。それを食べたいときに食べられるというのは、以前は最高の贅沢だったはずだ。

それでも、「食べたければ買ってくれば良いではないか」という人に私はこう言いたい。

別に買ってまで食べたいものでもない。
と言うと誤解を与えそうだけど、だってシソって勝手に生えて来るし、それこそタダで好きなだけ食べられるものだから。本当です。見よこのシソの生命力。

昨日もこの小さい葉っぱを摘んでパスタに乗せて食べたのだけど、こんな小さいサイズでも香りは鮮烈で、とても美味しかった。

しかし、一か月空いたブログの更新のネタがまたウチの庭の話というのは何というか、ウチの生活は平和なのだろう。世界も平和になってほしい。

AIは原種チューリップを判別した

ウチの庭に見慣れない花が咲いている。何だろうこの花はと思ってGoogleレンズで調べてみたら「原種チューリップ」という答えが得られた。何のことは無い、去年自分でここに植えた球根が花を咲かせていたのだった。
私は別に、ここに球根を植えた事を忘れていた訳では無いのだけど、でもチューリップと言えばてっきり例の保育園児が描くような、蕾のような形が維持されるあの花が咲くとばかり思っていた。なのでこの藪からスティック土からフラワー的な花の形には不意を突かれたという訳だ。しかし綺麗な花だ。

それにしても感じるのは、Googleレンズというアプリケーションの凄さ。画像を写真に撮るだけで花の名前が分かってしまう。
生成AIが急速に発展して来ている昨今、それが人の仕事を奪うのではないか、いや奪うのは確実だと議論されているけれど、それより前にすでに画像認識AIは社会を変えてしまっているようだ。このアプリはもう花の名前の鑑定士という職業をほぼ死に追いやってしまった。誰にも気づかれずひっそりと。(そんな職業が有るのか?)

新しい村で蕎麦粉を買った

仕事帰りに、宮代町の「新しい村」に寄ってみた。

名前からして武者小路実篤の「新しき村」を連想させるのだけど、パンフレットを見る限り無関係のようだ。しかしそこには、”新しい村にかかわる全ての人が「農」という地域資源を媒介として「新しいコミュニティ」や「新しい価値観」を創造しそれらの仕組みを町全体に広げていく拠点にしたいという考えから名づけられました”と書いてあって、単に農産物を販売する道の駅のような施設ではなく、深い思想に基づいて作られ運営されている組織らしい。

とは言え、ここは売っているものも雰囲気も道の駅と言う感じでだれでも気軽に寄れる。そして値段が安い。そば粉が売っていたので買ったのだけど500gで550円だった。

そば粉は若干緑色をしていた。これはおいしいに違いない。早速蕎麦がきにして食べた所、香りが強く味も濃く、大変おいし。

蕎麦がきを知らない人がいるかもしれないので念のため書くと、これは蕎麦粉に熱湯を注ぎ、手早くかき混ぜただけの原始的な料理。出来上がりは丁度、何も入っていないお好み焼きの表面を剥いだ内側の部分みたいな感じになる。
生醤油とワサビを付けて食べるのが一般的だ。想像通りの味ではあるのだけど、これが蕎麦粉の味を純粋に楽しめるものだとして蕎麦好きの間では食べ継がれている。

所で、ふと「蕎麦がきが有るのにうどんがきが無いのは何故だろう」と思った。それで、小麦粉でうどんがきを作ってみた。写真を撮りながらの作業だったので少々ダマダマが出来てしまったが、やってみると案外それらしいものが出来る。
味も絶望的と言うほどでも無くて、例えば非常時なら小麦粉の一つの食べ方のとして有り得るかもしれない。とは言え蕎麦がきが蕎麦粉のおいしい食べ方として積極的に選択肢に入るのに対しうどんがき(とここでは呼ぼう)は、何もこんな事をしなくても他にもっとおいしい食べ方が有るでしょうという感じで、現在の世の中の成り立ちにはそれなりに理由が有ると知った。

余寒見舞い申し上げます

暑中見舞いには残暑見舞いが有るのに、寒中見舞いに残寒見舞いが無いのはなぜだろうと思ってググってみたら、ちゃんと有った。「余寒見舞い」と言うそうだ。暦の上では春とは言えまだ寒い2月~3月上旬に出す挨拶状との事。

季節の挨拶状は年賀状の他、寒中、余寒、暑中、残暑が有るそうだ。しかし、何で年賀以外はみな揃いもそろって「見舞い」ばかりなのだろう? 見舞いと言えば病院に入院している人を訪ねる事を連想するのだけど、それ以外に何か深い意味でもあるのだろうか?

例えば挨拶状に「どう最近? なんか面白い事有った?」と書いたとする。これは対面での挨拶では有り得る。でもこれがハガキで来ると多分面食らって、自分はいったいどうしたら良いのだろう? 返事を書くべきなのか? などと考えてしまうと思う。
かといって最初から自分の事ばかり書いてしまうと、送り付けた感が強い。なので、挨拶状は適度に気遣いを感じさせかつ返事の手間を取らせない”見舞い”辺りに落ち着いた、という所なのではないか。

しかしそう考えると春ってなんにも見舞うネタは無いなぁ。花粉くらいかな。

機械に気持ちは通じるのか?

今朝は新調したPCが素直に立ち上がってくれなかった。

昨日深夜にそれまでそのPCでしていた仕事を終えた後SSDからUSB経由で外付けのHDDにデーター移動を開始したら、残り時間が1時間以上と表示されていたのでそのまま寝た。そうしたらそれがいけなかったのか、復帰しようとしてもファンがゴーゴー唸るだけで画面は真っ黒のままになってしまった。 根元から電源を入れなおしても同じ。

蓋を開けてマザーボードを見たらCPUトラブルの赤ランプが点灯していた。
冗談じゃない忙しいのに・・・

と、いうような悪態は付かない事に、私はしている。それより、必要なのは愛なのだ。
私はそっとマザーボードの電池を取り外し、悪い記憶が消え去るまで待った。

おもむろに電源を入れてみる。
ファンが回り、CPUクーラーとメモリーのLEDが光った。しかし、反応が無い。
初回起動時にはマザーボードのチェックが部品全てについて詳しく一回りするので、立ち上がりに時間がかかる。焦ってはいけない。 私は再び待った。すると、やがてPOSTチェックのLEDが点灯し始めた。徐々にチェックの場所が変わってゆく。 気持ちは通じたのだ。愛している。

因みに去年の末まで使っていたPCは、25年以上使ってファンも寿命が来ていた古いケースを処分して、新しく買った白い色のケースに入れ替えて、リビングで使っている。

これも、Ryzen 9 3900Xにメモリー64GBというYoutubeを見るだけにはもったいなすぎるスペックなのだけど、奥さんからはあんたは高級品を買ってこっちには古部品を回したと評判が悪い。 それでそのPCは白く塗った墓なんて言われる。表は美しいが中身は死体が詰まっているって。
いい名前だな。

箱根ビジターセンターの駐車場は無料

家族旅行で箱根に行ってきた。今回はあまり日にちが取れないので、じゃあたまには観光地に行ってみましょうかという話になったので。

正月から3連休にかけての日という事もあり、どこも大変混雑しているようで、その様子は道々道路の込み具合で分かった。しかし、ビジターセンターはご覧の通りすいていた。
この場所は芦ノ湖にも通じるちょっとした散策路の中にあり、ロープウェイの駅へも徒歩数分という好立地でありながら駐車場は無料という所がいい。建物もトイレも綺麗だし、それに何より暖房の効いた館内からこの眺めが楽しめるのは素敵だ。観光地にありがちなのぼりも、市町村が作る施設にありがちな壁に無秩序に張り付けられたサインも無く、心穏やかに過ごせる場所だった。

奥さんもここを随分気に入ったようで「やー、箱根がこんなに良いところだとは思わなかったわ。実家にいたときは箱根と言えば豪華な観光旅行しかしたことがなかったから」と言っていた。