新しい村で蕎麦粉を買った

仕事帰りに、宮代町の「新しい村」に寄ってみた。

名前からして武者小路実篤の「新しき村」を連想させるのだけど、パンフレットを見る限り無関係のようだ。しかしそこには、”新しい村にかかわる全ての人が「農」という地域資源を媒介として「新しいコミュニティ」や「新しい価値観」を創造しそれらの仕組みを町全体に広げていく拠点にしたいという考えから名づけられました”と書いてあって、単に農産物を販売する道の駅のような施設ではなく、深い思想に基づいて作られ運営されている組織らしい。

とは言え、ここは売っているものも雰囲気も道の駅と言う感じでだれでも気軽に寄れる。そして値段が安い。そば粉が売っていたので買ったのだけど500gで550円だった。

そば粉は若干緑色をしていた。これはおいしいに違いない。早速蕎麦がきにして食べた所、香りが強く味も濃く、大変おいし。

蕎麦がきを知らない人がいるかもしれないので念のため書くと、これは蕎麦粉に熱湯を注ぎ、手早くかき混ぜただけの原始的な料理。出来上がりは丁度、何も入っていないお好み焼きの表面を剥いだ内側の部分みたいな感じになる。
生醤油とワサビを付けて食べるのが一般的だ。想像通りの味ではあるのだけど、これが蕎麦粉の味を純粋に楽しめるものだとして蕎麦好きの間では食べ継がれている。

所で、ふと「蕎麦がきが有るのにうどんがきが無いのは何故だろう」と思った。それで、小麦粉でうどんがきを作ってみた。写真を撮りながらの作業だったので少々ダマダマが出来てしまったが、やってみると案外それらしいものが出来る。
味も絶望的と言うほどでも無くて、例えば非常時なら小麦粉の一つの食べ方のとして有り得るかもしれない。とは言え蕎麦がきが蕎麦粉のおいしい食べ方として積極的に選択肢に入るのに対しうどんがき(とここでは呼ぼう)は、何もこんな事をしなくても他にもっとおいしい食べ方が有るでしょうという感じで、現在の世の中の成り立ちにはそれなりに理由が有ると知った。

余寒見舞い申し上げます

暑中見舞いには残暑見舞いが有るのに、寒中見舞いに残寒見舞いが無いのはなぜだろうと思ってググってみたら、ちゃんと有った。「余寒見舞い」と言うそうだ。暦の上では春とは言えまだ寒い2月~3月上旬に出す挨拶状との事。

季節の挨拶状は年賀状の他、寒中、余寒、暑中、残暑が有るそうだ。しかし、何で年賀以外はみな揃いもそろって「見舞い」ばかりなのだろう? 見舞いと言えば病院に入院している人を訪ねる事を連想するのだけど、それ以外に何か深い意味でもあるのだろうか?

例えば挨拶状に「どう最近? なんか面白い事有った?」と書いたとする。これは対面での挨拶では有り得る。でもこれがハガキで来ると多分面食らって、自分はいったいどうしたら良いのだろう? 返事を書くべきなのか? などと考えてしまうと思う。
かといって最初から自分の事ばかり書いてしまうと、送り付けた感が強い。なので、挨拶状は適度に気遣いを感じさせかつ返事の手間を取らせない”見舞い”辺りに落ち着いた、という所なのではないか。

しかしそう考えると春ってなんにも見舞うネタは無いなぁ。花粉くらいかな。

機械に気持ちは通じるのか?

今朝は新調したPCが素直に立ち上がってくれなかった。

昨日深夜にそれまでそのPCでしていた仕事を終えた後SSDからUSB経由で外付けのHDDにデーター移動を開始したら、残り時間が1時間以上と表示されていたのでそのまま寝た。そうしたらそれがいけなかったのか、復帰しようとしてもファンがゴーゴー唸るだけで画面は真っ黒のままになってしまった。 根元から電源を入れなおしても同じ。

蓋を開けてマザーボードを見たらCPUトラブルの赤ランプが点灯していた。
冗談じゃない忙しいのに・・・

と、いうような悪態は付かない事に、私はしている。それより、必要なのは愛なのだ。
私はそっとマザーボードの電池を取り外し、悪い記憶が消え去るまで待った。

おもむろに電源を入れてみる。
ファンが回り、CPUクーラーとメモリーのLEDが光った。しかし、反応が無い。
初回起動時にはマザーボードのチェックが部品全てについて詳しく一回りするので、立ち上がりに時間がかかる。焦ってはいけない。 私は再び待った。すると、やがてPOSTチェックのLEDが点灯し始めた。徐々にチェックの場所が変わってゆく。 気持ちは通じたのだ。愛している。

因みに去年の末まで使っていたPCは、25年以上使ってファンも寿命が来ていた古いケースを処分して、新しく買った白い色のケースに入れ替えて、リビングで使っている。

これも、Ryzen 9 3900Xにメモリー64GBというYoutubeを見るだけにはもったいなすぎるスペックなのだけど、奥さんからはあんたは高級品を買ってこっちには古部品を回したと評判が悪い。 それでそのPCは白く塗った墓なんて言われる。表は美しいが中身は死体が詰まっているって。
いい名前だな。

サンタクロースは誰なのか

昨今、世間一般ではクリスマと言ってサンタクロースからプレゼントを貰うことが一般化しているらしい。なぜそのような事が分かるかと言うと、今の時期保育園ではそのようなイベントが沢山見られるからだ。
この間撮影に行った保育園でも、全園児を集めた教室にサンタクロースがやって来るというイベントが行われた。例の赤い服に身を包んだ彼が後ろの扉を開けて部屋に入ってくると、怖がる年少の子どもたちの泣き叫ぶ声が部屋中に響き渡った。
しかもそこに正体を見抜いた子どもたちの「わー何々君のお父さんだー」という声が重なって、もうわけがわからない。自分たちは一体何をしているのだろう?という感じがした。

実は私の実家ではクリスマスにプレゼントを貰うというような習慣は無かった。と言うかもう小さい頃から、あれは嘘なのよと親から教えられていていた。振り返ってみると、それは自分にとっても良いことだったのかもしれない。
でも友達に、「サンタクロースは実は親なんだよ」と真実をバラしていたのは良くなかったかもしれない。

跡あるいは記憶

私は最近、以前は何かだった所という写真を撮ろうとしているのだけど、その事を奥さんに言ったら、全ての場所は以前何かだったと指摘された。
いやその通りである。だが違う、と言いたい。何が違うのかこれからその説明をしたいと思う。

で、このお店は、一昨日ここにオープンしたらしい 鶏白湯専門店 つけ麺まるや 楢原店 。
このお店は以前は牛骨ラーメンを全面に出して売っていた中華料理屋 味府 という店だった。でも、奥さんにあそこの店舗に新しくラーメン屋が入ったよと教えたら彼女は「ああ、元カレー屋さんだった店ね」と言った。

それは確かにそうなのである。しかし、この店舗は我々が八王子に引っ越してきた当初は蕎麦屋の増田屋だった。GoogleMapで調べる限り、それよりも前からずっとここは増田屋であった。第一、瓦屋根の店舗付き住宅という建物の感じからしても増田屋である。
それがしばらくして店はたたまれ、それから少しの間はただの住宅として利用されている期間が続いた。私も家族に、”店舗付き住宅は住居人が廃業しても店舗は有効活用されない”の例として挙げていたので良く覚えている。

所が地域住民としては喜ばしいことに、跡にカレー屋の マサラ が入った。金属のお皿で大きいナンと器に入ったカレーが供される所謂インネパカレー屋なのだけど近くにできたのは嬉しくて、我々夫婦は、開店当時一度行ってみている。

味はどちらかと言えばマイルドな感じだったけど、普通に美味しかった。しかし、コロナ禍の影響か残念ながら閉店してしまった。我々が食べている最中に店の人の娘さんと思しき小学生が店に入ってきて厨房奥の住宅への入り口から家に登ってゆくのが見えたのも印象的だった。あの家族は閉店と共に住居も失ってしまったのだろうか? これも店舗付き住宅の問題点として家族に挙げていたので良く覚えている。

それで次に出来たのは中華料理屋さん。美味しそうだなぁ、いつか来てみよう。と思いつつも気づいたらこのとおりである。やりたいと思った事は早めにするべきだった。しかしやはり、一度も行っていないので店の名前さえ覚えていない(この記事を書くために調べた)。

この一件で解ったのは、「跡」というのはその人が強く思う記憶の事であるということだ。この場所について我々の記憶に残っているのは行ったことのない中華料理屋でも蕎麦屋でもなく、あのいかにもアチラの方が作っていたカレー屋さんのマサラなのである。それで奥さんも今のラーメン屋について「カレー屋さんの跡」と言ったのである。

「跡」とは人の記憶あるいは思いの事であるとすると、随分哲学的なテーマだなと自分でも思う。

所で哲学と言えば、ここのつけ麺まるやをGoogleが表示するニュースは「町田多摩境より移転オープン」と表現していた。
でもチェーン店のうちの一店舗が閉店し一店舗が開店する事を、果たして「移転」と言えるのだろうか? この店はチェーン店だし、場所も、歩いていける範囲ならまだしも隣町のしかもかなり離れた所なのである。
ピンとこないというのであれば電車で何駅も離れた隣町のマクドナルドのうち一店舗が閉店したと同時に近所にマクドナルドが出来た所を想像してみてほしい。これを「移転」と呼んているようなものだ。
店の移転とは何か。これは哲学における思考実験「スワンプマン問題」を想起させる。

独占企業も時代の流れには勝てない

ここは利根川は千葉県は下木の北側の川縁。
ここには江戸時代の昔から明示の初期まで河岸があり、水運に関す権利料の徴収で地元は栄えたそうだ。この近所には蔵を資料館にした「吉岡まちかど博物館」があり、この地の歴史の一端を見ることが出来る。

もともと資料館となっている蔵を所有していたのは吉岡家で、当時は幕府による許可の元遊覧を中心とした旅客業務を独占的に行っていたそうだ。

それが明治になって衰退した直接の原因は、川に高い堤防が出来たからだと職員の人から聞いた。それで、自分でその川を見に行ったのだけど、確かに物流にこの堤防は不便かもしれないが人間が観光に行き来する妨げになるほどのものとは思えなかった。現に今でも東京の屋形船は堤防越しに乗り降りしている訳だし。
水運の物流拠点としてのこの辺りの価値が、鉄道や道路網の整備によって全体的に下がり、地域経済が停滞し、それでこの辺りで贅沢な遊びをする人がいなくなったという事なのかもしれない。

今まで栄えてきた場所が時代の流れによって廃れるというのは仕方のないことだ。
でも、これからの将来の計画に今現在の需要を過度に重視するのは危険だと思う。今日本ではインバウンド需要を見込んで投資がされているようだけど大丈夫なのかなと、この河原を見ながら少々心配な心持ちになった。

どうせ死ぬのならお煎餅を食べたい

ウチの近所にあるお店、陣馬せんべいは、濃い味の付いた「味噌せん」が売りだ。硬いせんべいの表面に甘辛い味噌が厚くコーティングされたそれはなかなか美味しい。
これは本来は高級品なのだけど店頭には時たま割引価格の割れせんべいも売っていて、食べたくなった日にはそれを買いに行っている。

しかし考えてみるとこの、食べたくなるという感覚は面白い。頭の中にそれが想起されると、それの存在が前提とされる未来が思い描かれ、それに対する渇望がますます強くなる。
食べたいと思うことによってそれは世の中に存在する様になると言い換えても良い。

最初の一つがこの世に登場した理由は単なる偶然なのかもしれない。
江戸時代、茶屋のおばあさんが売れ残った団子を川に捨てていると、それを見たお侍さんから、「そんな勿体ない事はやめなさい。平たく伸ばしたうえで網で焼いて御覧なさいと」言われて試しに客に供してみたら大ヒット! 因みにそのおばあさんの名前はおせんさん。それで作ったお菓子はお煎餅と呼ばれた。
てなところだろう。
しかし、そのようなものが今日まで存在し得た理由は、今なお人々から思い起こされるからに違いない。人が思うことによってそれは世の中に存在し得るのだ。

プルースト効果的な何か

今発表会で録音した音源の編集を行っているのだけど、つい演奏を聴いてしまって捗らない。
今回はプログラムの中にマクダウェルの野薔薇に寄すが有った。久しぶりに聴いた。

比較的シンプルながら情緒的なこの曲は確か、NHK教育(ってこれ自体懐かしい)が午前中に、学校の視聴覚室で見せる為に放送していた理科の番組の中で、実験等の場面で流れていた。
例えばこま撮りで撮影された植物や昆虫が成長してゆく様子の美しい映像のバックに流れていたような気がする。

風邪をひいて学校を休んだり次の日はサボりで休んだりした時にそのTV番組を見て退屈な時間を過ごしていたのだけど、曲を聞くとあの時の光景が思い出される。

香りが記憶を呼び起こすことを「プルースト効果」と呼ぶそうだが、音楽を聴いて過去の記憶が呼び覚まさる事に名前は付いているのだろうか?

Summer’s Cauldron

お盆である。この日辺りには、死者は黄泉の国から自分の生活していた地域に帰ってくる(事になっている)
しかし、自転している地球は太陽の周りを公転しており、しかも太陽系は銀河系の中において常に移動し、しかも銀河系も宇宙の膨張に伴い移動し、相対位置は常に変化している。
にも関わらず、霊はよくピンポイントに地球上の一つの場所に帰ってこられるものだと思う。
大体、霊が回転する地球上に、上空に吹っ飛ぶことも地面深くに潜り込むこともなく位置を固定出来るのは何故なのだろう。霊と、電磁力や重力は相互作用のうちのあるという事なのか?*1

私は別にそういう死後の命や魂を信じる口ではないが、しかしさらに無意味に疑問を持ってしまうのは、どうして人は死に際し、肉体から霊へと変化する体に意識を引き継いだり出来るのか?という事である。霊になった自分は自分が自分である事を知るのだろうか? 無事自身が霊にコピーされたとして、その時まだ肉体が生きていたとしたら自分が世界に二人いるという事にならないか? そしてコピーはコピーに過ぎずやはり一方は意識を含め存在が消えるのではないか? と言うか、そもそも今朝起きた自分は昨日の夜に寝た自分なのか? 本当の自分は実は昨晩死んでしまっているのではないか?*2

自分は朝起きなければいけない時はスマートフォンの目覚まし機能を使って起きるのだけど、その際に鳴らす音はベル音の代わりに上記Youtubeのリンクにある、XTCの”Summer’s Cauldron”を流すように設定している。
「どうか構わないで欲しい。此処にいるのは自分の望んだ事なのだ」という歌詞がどこかこの世とあの世の境を思わせるこれを、私は中学生の頃に初めて聴いてその時から好きだった。自分の葬式の時にかけて欲しい曲だし、死んだ後しばらくしてからもかけて欲しいと思っている。
この曲を頼りに銀河系の太陽系の地球の日本の八王子の場所を特定するのだから。

*1 何年か前、これをテーマにひと続きの写真を撮影した。東急田園都市線沿線を何日か歩いてモノクロで仕上げた写真は自分で見てもなかなか良かったと思う。
因みにその時に考えていた仮説は、「霊とは人の頭の中にあるものである」だった。
と言っても、それは人が勝手に頭で考えたり感じたりするものではなく、生きている人間の脳の機能を間借りして生きる生命体があって、寄生された人間は普段はその事に気づかないのだけど、磁場の影響で時たまその生命の活動の影響が意識に漏れ出してしまい、それを霊として感じる。という設定にしていた。

*2 哲学に詳しい人の為に付け加えると、この話の前提には”意識は脳が引き起こす物理現象である”がある。現代を生きる私は、二元論の立場を取るのには余計な知識を得てしまっている。

価値ある70ml

客先でペットボトル入り飲料を頂くことが有る。暑い季節、有り難いことだ。
でも大抵は持参の水を飲んでいるので、それは開けないで持って帰ってきている。

写真はそんな頂いたミネラル麦茶の瓶。メーカーも中身も同じなのに、よく見るとサイズがそれぞれ違う。左から、600ml、650ml、670mlだ。
いや、コカ・コーラのように、350ml、700mlという種類なら用途で別れている事が解る。しかし、何故ミネラル麦茶はこのように細かなサイズ違いの商品展開になるのだろう?

とは言え、体に水分が必要な暑い夏は一口でも多いほうが有り難い。もしかするとこの追加の70mlが生死を分ける、なんて事もあるのかもしれない。

所で、水分が生死を分けるで思い出したのだけど、砂漠で人が死んでいるのを発見すると、何と、大抵その人の持っている水筒の中にはまだ水が残っているのだそうだ。「この水を飲み終わると死ぬ」とか思って飲み水を節約しているのかもしれない。
ここから、持てるリソースは勿体ながらずに適切に活用せよ、という重要な教訓が得られると思う。(頂いた麦茶を勿体ながって飲まず、ただの水を飲んでいる自分が言う教訓でもないが)