跡あるいは記憶

私は最近、以前は何かだった所という写真を撮ろうとしているのだけど、その事を奥さんに言ったら、全ての場所は以前何かだったと指摘された。
いやその通りである。だが違う、と言いたい。何が違うのかこれからその説明をしたいと思う。

で、このお店は、一昨日ここにオープンしたらしい 鶏白湯専門店 つけ麺まるや 楢原店 。
このお店は以前は牛骨ラーメンを全面に出して売っていた中華料理屋 味府 という店だった。でも、奥さんにあそこの店舗に新しくラーメン屋が入ったよと教えたら彼女は「ああ、元カレー屋さんだった店ね」と言った。

それは確かにそうなのである。しかし、この店舗は我々が八王子に引っ越してきた当初は蕎麦屋の増田屋だった。GoogleMapで調べる限り、それよりも前からずっとここは増田屋であった。第一、瓦屋根の店舗付き住宅という建物の感じからしても増田屋である。
それがしばらくして店はたたまれ、それから少しの間はただの住宅として利用されている期間が続いた。私も家族に、”店舗付き住宅は住居人が廃業しても店舗は有効活用されない”の例として挙げていたので良く覚えている。

所が地域住民としては喜ばしいことに、跡にカレー屋の マサラ が入った。金属のお皿で大きいナンと器に入ったカレーが供される所謂インネパカレー屋なのだけど近くにできたのは嬉しくて、我々夫婦は、開店当時一度行ってみている。

味はどちらかと言えばマイルドな感じだったけど、普通に美味しかった。しかし、コロナ禍の影響か残念ながら閉店してしまった。我々が食べている最中に店の人の娘さんと思しき小学生が店に入ってきて厨房奥の住宅への入り口から家に登ってゆくのが見えたのも印象的だった。あの家族は閉店と共に住居も失ってしまったのだろうか? これも店舗付き住宅の問題点として家族に挙げていたので良く覚えている。

それで次に出来たのは中華料理屋さん。美味しそうだなぁ、いつか来てみよう。と思いつつも気づいたらこのとおりである。やりたいと思った事は早めにするべきだった。しかしやはり、一度も行っていないので店の名前さえ覚えていない(この記事を書くために調べた)。

この一件で解ったのは、「跡」というのはその人が強く思う記憶の事であるということだ。この場所について我々の記憶に残っているのは行ったことのない中華料理屋でも蕎麦屋でもなく、あのいかにもアチラの方が作っていたカレー屋さんのマサラなのである。それで奥さんも今のラーメン屋について「カレー屋さんの跡」と言ったのである。

「跡」とは人の記憶あるいは思いの事であるとすると、随分哲学的なテーマだなと自分でも思う。

所で哲学と言えば、ここのつけ麺まるやをGoogleが表示するニュースは「町田多摩境より移転オープン」と表現していた。
でもチェーン店のうちの一店舗が閉店し一店舗が開店する事を、果たして「移転」と言えるのだろうか? この店はチェーン店だし、場所も、歩いていける範囲ならまだしも隣町のしかもかなり離れた所なのである。
ピンとこないというのであれば電車で何駅も離れた隣町のマクドナルドのうち一店舗が閉店したと同時に近所にマクドナルドが出来た所を想像してみてほしい。これを「移転」と呼んているようなものだ。
店の移転とは何か。これは哲学における思考実験「スワンプマン問題」を想起させる。

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