終わったこと、進行中なこと

一年が終わろうとしている。

まだ蕾の付いているバラの剪定を行った。この、レディ・ヒリンドンはステムが細くて新芽のような赤い色をしており、花器に挿すと映えると思う。
花の何が良いかといえば、彼らはこちらの暮らしとはあんまり関係なく生きているという事で、季節が変わり時間が過ぎてゆく事を強制的に知らしめる所が良いと思う。誰が見ていなくても花は咲く訳だ。
しかし、こんな写真を上げると優雅な暮らしをしている様に見えるけど、花瓶といえばウチにこの一つしか無く、これが有る前はコップに挿していたし、この花瓶にしても近所のホームセンタームラウチホビーが潰れる時に買ってきたものだ。いらんものを買ってきたとウチの奥さんには叱られたし。

コーヒーメーカーのポットが割れた話の続き。壊れたコーヒーメーカーに付属のドリッパーを使い続けるのもカッチョ悪いし第一新しく買ってきたポットとは全然形が合わなくて不安定だったので、100円ショップで売っていたこのワイヤー式のドリッパーを買ってみた。

これは言わずもがな、ユニフレームが山用品として出しているもののコピー品だ。一見不安定に見えるが実際不安定で、一見脇からコーヒーが漏れ出しそうな感じがするけど事実フィルターの継ぎ目あたりからも雫が滴る。つまり見たとおりの品だ。
味は心なしか濃いめに出る感じがする。

禁止の禁止は許可なのか?

これは、八王子駅南口広場にある案内板の写真。(念の為、画像加工で作られたフェイクではなく実際の画像で、昨日撮影された)

禁止事項として何某かの禁止事項がリストアップされている。これはつまり、その行為を禁止する事を禁止している事になるのではないか?
私はプログラマーという職業は10年以上前に辞めてそれ以来していないのだけど、しかし今だにこの手の記述の論理的構造が気になって仕方がない。

所で、禁止する事を禁止する事は、すなわち許可を意味する事になるのだろうか?
理屈の上ではそうなるのだろうけど、実際はそうならない事が殆どだと思う。それは空気とか雰囲気とかそういうものでかかる圧力が有るからで、そういう事情を知ったのはプログラマーを辞めてから。

電子レンジの時間表記に見る人生観

写真はまた例によって本文と関係ないのだけど防災団地として有名な都営白髭東アパート。大火事の時には防火壁になるらしい。

所で、この間新しいオーブンレンジを買った。
それまで2年間使っていた物は別にどこか壊れたわけでもなく、機能的にも別に不満は無かったのだけれど、ただオーブンの温度が200℃までしか上がらずグラタンが上手く焼けない事だけはちょっと残念だった。
それが最近、グランマの家の電子レンジが壊れてしまい機能は温めるだけで良いから安いのを探しているとの事だったので、ウチのを引き取ってもらい、そしてウチはオーブンの温度が上がる物を購入した。今度のは250℃まで上がり、グラタンもちゃんと焼き目が付く。味も美味しい(感じがする)

ただ、新しいオーブンレンジの仕様に困惑することが一つ有った。オートのボタンで温める時、今までのレンジでは表示されていた温め終了までの残り時間が、新しいそれでは全く表示されないのだ。

今までのレンジでは、例えばオートミールと水を入れたどんぶりを温めはじめるとカウントダウン式にあと3分等と残りの時間が表示されていた。これは非常に便利だった。私はその時間を見て、ヨシ今だーっという感じでトイレに行ったりしていた。

所が、新しいレンジでは、オートの場合何の表示もされない。この人何温めているのか分かっているのだろうかと不安になるし、仮に信頼したとしても、後どのくらい経てば温め終わるのかも分からない。

しかし、いつ加熱が終わるのか分からない電子レンジの中のオートミールを眺めながら思ったのは、これはこれで一つの人生、一つの生き方なのではないかという事だ。

人は自分がいつか死ぬことを知っている。しかし死ぬ日は知らない。これは電子レンジの温め終了時間が表示されない事に似ている。なら、とあえて言おう。やりたい事があるのなら、終わりの時間なぞ気にせずやりたい時にやった方がいいという事になる。
なまじ時間なんか表示されるからかえって気になるのだ。それに、その表示時間が正確だなんて一体誰に分かるというのか? トイレなんて行きたい時に行けば良いと思う。リンゴの木を植えろだ。

写真にタイトルを振るのは難しい

写真をコンテストに出品する時、タイトルを振ること求められる事が多い。しかし写真のタイトルと言うのは難しい。
よく見るのは、「旅情」とか「静寂」とか一言のもので、悪いとは言わないけど臆面もなく心情を晒しているようでなんとなくこそばゆい。

個人的には「田舎の秋」のように、捻りのない只それだけみたいなタイプのタイトルは良いと思う。「の」という助詞は感情を交えず説明を加える。

スタジオジブリの映画は「の」の入ったタイトルが多いという話を聞いたことが有る。「風立ちぬ」・・・はい勿論例外もあります。「となりのトトロ」が有名すぎるのだろう。

しかし、この強力な「の」の力は利用したい所だ。のを付けられる形容詞を、思いつく限り沢山並べてみてはどうだろう。

「初恋の」「魅惑の」「信頼と実績の」・・・もう止めよう。こんなのしか思いつかない。

ばらの花について

こういうのどこに書いたら良いのか迷う。結局自分のブログに書くことにした。

車の中に置きっぱなしにされていた音楽用USBメモリー(娘のだ) を、持参の音楽も聴き飽きたので差して聴いていた。そうしたらその中に一曲くるりのばらの花のライブが入っていた。ご存じの方も多いと思うがこれは不思議な歌だ。以下は知っている方向け。

歌詞の並びは時系列順ではないのではないかと思う。理由は、ジンジャーエールは冒頭で飲んで味を知っているから。故に、冒頭の部分はそれ以降に歌われる内容と時を前後している。そしてその後の歌詞についても、ブロック毎に時は前後しているはずだ。

そして、突然挿入されるサビの「旅に出よう」は心中という事なのではないか? そう考えると歌詞の全ての筋が通るような気がする。ジンジャーエールは薬を飲み下す為に買われたものでそれは飲み物なら別に何でも良かったわけだがしかし、いざ飲んでみると味が妙に気になる。そして心中に失敗して一人残った男は後日、歌の冒頭でまたジンジャーエール(だけ)飲んでいる。

今日も会えないやと歌われているが当然だ。相手はすでに死んでいる。

しかし、この曲に対するこのような感想はググっても出てこなかった。ありがちな見立てだと思うのだけど、自殺とか心中と言った単語を文中に含めると検索順位が極端に下がるのかもしれない。

最終的な結論はいつも経済

Quoraに、すべての概念を含む上位の概念は有るか、みたいな質問が寄せられていた。これは言い換えれば、一言で世界のすべてを表すことが出来るか、という問いになる、面白い質問だと思う。概念というのは集合に付けた名前の事だから、すべての概念を含む集合を作れば実現可能だろう。そして多分、それに近い言葉はすでに有るのではないかとも思う。(日本語だと、事態を諦めてその全てを受け入れる時に発する、やれやれ、みたいな。世界の全てはやれやれで表すことが出来る)

似たような事で、話をしているとどうも回り回ってそこに行き着く、という物事も有って、それについてもそれが世界のすべてを表しているような気がする。

ウチの奥さんと、スーパーのサッカー台に置いてあるビニール袋は何枚まで持っていっても良いのかという話をしていたのだけど、あのビニールを持ってゆくのはいかなる注意書きがされていようが客の権利だ、と、要約するとそのように言われた。お惣菜コーナーに有るサービス品の醤油やソースについても、例えば一つの揚げ物について10個のソースを取ったとしてその人の権利だ。空気や常識によって人を縛るな。と、(要約すれば)そのようなご意見。これは、どちらかと言うとみんな仲良く共産主義の自分からすると受け入れがたい意見である。

しかし、話し合ってゆくと最終的な結論はいつも、あんたの稼ぎが悪いからよ。に、行き着く。誰だって稼ぎがあれば醤油やソースは自分で買うしビニールだって自分で買う。人は貧乏だから無料の品を貪欲に取るのよ。との事。

悔しいがこれは真実で、人は文字通り食足りれば礼儀も知るのだ。結局、一言で述べれば世界は経済だ。

新しい朝が来た

朝が来るというのは自転する惑星上に住む自意識を持つ生物の単なる主観に過ぎない。「明けない夜は無い」という言葉を聞くと、いつのどこの誰について? と、つい思ってしまう。

しかしこういう事を人前で述べると顰蹙を買うので、最近は言わないようにしている。人も50を過ぎると空気を読むという事を覚えるのだ。

だがしかし、自分の思う事とは違う事を、自分を裏切りつつしかも自分発という体裁で発信し続ける事は自我に悪影響を与える行為だと思う。バランスを取る為には、どこかで、自分が好き勝手に自分である事が出来る活動が必要なはずだ。

年賀状って、昔の人にとっては自分の創造性を遠慮なく発揮して人に見せつける事の出来る自己表現の機会になっていたんだろう。そして今はSNSがその役目を果たしているのかもしれない。

ブドウは美味しいよ

写真はウチの庭で育てているブドウ。品種はマスカットベリーAで、まだ熟してはいないが色づいた一粒はそろそろ摘んで食べることが出来る。

これは以前住んでいたアパートのベランダで、鉢に植えて育てていた木だ。鉢植えの時は狭いベランダでも十分育てられる大きさだった。

それを地植えにしたのは一昨年の事だ。次の年「もしかして、伸びてもいいのですか?」と言う感じに枝が伸びた。地植えだと枝も伸びるようになるのだなぁと思った。

所が今年はもう当然の権利のように伸び放題、庭もブドウのジャングル状態。これは困った、こんなんなるなら冬が来たら木を切ってしまおうと考えた。

でも、一粒食べるとまあ美味しくて、やっぱり考えを変えた。ジャングルも許そうと思った。

八百屋に売っているフルーツはコンパクトにまとまった出来上がりの状態だ。そして、出来上がりだけ頂くというのは気楽なもので、それだけ見ているとそれがどのようにして成り立っているのか忘れがちだ。