オートミールはチャーハンになり得るか

春分の日を明日に控えた今日、八王子では雪が降っている。雷もおきていて、その明かりは室内にいても視界に残像を残すほど強い。
自分には悪い癖が有って、こういう季節外れの天気に見舞われたりするとつい、何か良くない事が起きるのではないか? 等と感じてしまう。予感というやつだ。

例えばこういうのがある。
八王子駅北口のバスターミナルの巨大デジタルサイネージには延々と大音量で広告がながれるのだけど、そこに時たま占いが表示されて今日のラッキーカラーとかラッキープレイスとかが案内される。なので嫌でも、「今日のラッキープレイスは”駐輪場”」と表示されているのが目に入ったりする。
自分は占いは信じていないと自分では思っている。がしかし、駐輪場は気になる。というかもう気になって仕方がない。どんな良い事が有るのだろう? どのくらいそこに居れば良いのだろう? そもそも駐輪場は北口と、南口と、それに世界中にあるけれど、どの駐輪場の事だろう?
こうして文章にしてみると冷静に批判をしているようにも読めるが、でも心には説明のできない気持ちが動めいていて、体の中にはラッキーを求める血がドクドクと巡っている。もう下手をすると、その日は一日中駐輪場で過ごしかねない。

昨日のNHKラジオのニュースで、政府が備蓄米を放出したと述べていた。備蓄米は本来、本当の飢餓の為に蓄えられているものだ。なので本当は米価の調整の為に使って良いものでは無い。しかし、米も5kgの平均価格が4千円を超える事態になるとこれはさすがに放ってはおけず、手を打ったという事なのだろう。
それにしても謎なのは、どうして米の値段が上がるのかという事だ? 勿論ニュースでもそれからネットの記事でも理由は色々分析されている。曰く、元々生産量は減少傾向にあった、円安で輸出が増えた、民間業者が投機目的で買い占めている等等。しかし、それぞれ読んで総合的に考えてみると、全体としては謎のようだ。

この、米価高騰については消費者の行動もかなり関係しているのではないかと思う。無くなると思うとつい余計に買ってしまう、所謂買い占めだ。
ゲームに参加するメンバー全員がそれぞれ人の事を思いやりながら行動すれば全員に足りるものも、一人が利己的に行動し場のリソースが足りなくなると、不安は次々に伝播し多くの者が必要以上に買い占める事が生じる。すると、最初に行動した者だけが足りる事態が生じるので、ますます人は買い占めに走る事になる。
このように、人を行動に促すのは確かな知識やそれに基づく確実性の有る分析ではなく、不安や恐怖から来る予感なのではないかと思う。しかし場を共有するメンバーのあいだでは、予感は一人一人の無思慮な行動により現実になってしまうのだ。

でも、お米が無ければオートミールを食べればいいじゃない。
ベルクや業務スーパーで売っているラトビア産のものは1kg300円ほどで、今だとそれこそ米より安い。それにお店の棚にはまだ有る。
私は普段から食べていて無くなったら困るので、まだ家に余分があるにもかかわらずもう一袋買ってしまった。買い占めを批判する口で言うのも何だが、これは人間の行動原理なので仕方がない。

オートミールでチャーハンを作ると出来るが美味しくはないという話を書こうとしていたのだけど、長くなったのでそれはまた今度書こうと思う。

気合が有れば風邪はひかないがコロナには罹る

このあいだ、たまたま某所で「気導師」という仕事をしておられる方とお話をする機会が有った。気導師とは、気という人間に流れる力を整える整体師のようなものらしい。

彼が言うには、人は日常生活においても、自分でも気が付かないうちに自分の体の中の気で体調をコントロールしているらしい。例えば、大切な会議なり仕事なりが控えている日は風邪をひいたりしないというのがその表れだそうだ。
そう言えば、自分を振り返って見て思ったのは、写真の仕事を始めてここ10年、いやもっと、風邪はひいたことが無い。お陰で予定の撮影には欠かさず出かけることが出来ている。

でも、新型コロナには都合3回罹患した。(調べた訳では無いのだが家族がPCR検査で陽性の時期にうつり、自分も同じ症状が出ているので多分) 特に最初の時は症状も重く、治った後もひどく息切れがするという後遺症が1年以上続いた。それまでは走り回って撮影していた運動会も、その年は息切れがして走ることが出来なかった。

上記の記述はどちらも事実だ。風邪をひいていないのは事実なのだ。風邪くらいは本当に気合で何とかなる。
コロナはただの風邪とか言っていた人たち! 君たちは反省して頂きたい。

今年の目標

今年の正月はカレンダーの関係で随分長かったが、それでも1月も9日になると年始の気分も薄れ、日常が戻って来る。
一年という単位は人間の生活の中では実感として一番長い気がする。一年の他には、始まりと終わりを実感できる長いサイクルは中々無いものだ。例えば太陽のライフサイクルだと100億年待たないと終わらない。

それにしても、どうして人は年始に目標を立ててそれを発表したりするのだろうか? 現状の分析と方針の決定が一年に一度というのは少なすぎだし、それにそんな事はいつでも出来るしするべきだ。

今でもそうなのだろうか? 私が子供の頃学校の朝礼では訓話、所謂校長先生の長い話がされた。
そんな話は誰も聴いていないだろうと思うけど、でもそういう時に話された「竹に節目が有るように人生にも節目が有る。節目を大事にしなさい」という話はなぜか覚えている。
人生において本当の節目と言える日は数えるほどしかない。でもそれに加えて、人は自分の生活の中に人工的に節目を作り、人生の方をその節目に合わせる事で充実を図ることが出来る。みたいな話だったと思う。

実際のところ、仕事に追われていると本当に日にちはあっという間に経ってしまう。私も去年行った撮影のデーターがたまっていて、年末年始もずっとその作業をしていた(まだ終わっていない)。こういう生活を送っていると、何をするにしてもこの日と決めて強制的にするしかない。
校長先生が「節目は大切」と言った意味が、大人もこんな終盤になってだけど、理解出来る。

年始というのは思いを新たにするのに良い機会だ。この時期、一旦短くなった日はまた伸び始め、日差しは日に日に目に眩しくなってゆく。人生が新たに始まったようだ。

自分の今年の目標も書いておこうと思う。
去年一年を分析して一番に感じるのは、頭髪が少なくなったという事だ。髪が少ないというよりもはや、地肌が見えるという方が適切である。なので今年はその事を自分自身でしっかり受け止め、それを自己のアイデンテティに組み込んで行くという事を目標にしたい。
堂々と胸を張って、禿げを生きてゆく。これが今年の目標だ。

こんな目標を立てるのは一年に一度で十分かもしれない。

永遠とは何だろう?

ちょっと前の話なのだけど、神保町のPARAで面白い話を聞いた。
永遠には二種類有る。一つはいつまでも終わらないという意味での永遠。もう一つは、時間を超えて変わらず不滅であるという意味での永遠。
ニュアンスが伝わりにくい。例として挙げられていたのはインドのカレーを作る鍋の話。
インドでは竈に二つの鍋がセットされていて、その中ではいつもカレーのようなものが作られている。昨日作ったカレーに何かを足してさらに別の料理を作る。そしてそのように作り続けて滅多にそれは終わらないのだそうだ。使って減ったらまた足すその様子はまるで、100年使い続けられた伝統のウナギのたれのようだ。これがいつまでも終わらない永遠。(インドの鍋は実際にはたまには洗うらしいけど)

でも、もう一つの、時間を超越した普遍性という言うのはちょっと日本人には難しい。
我々の感覚においては時間の経過は、覆水盆に返らず的に過ぎ去った時間は二度と戻らず、一寸先は闇的にこれから来る未来は未確定かつ予測不可能という気がする。
何かについて「永遠」と語られる時、それが未来永劫不変であるという予測が必然的な必要性としてその語はその意味を伝える事になる。でも、諸行無常有為転変の世の中に身を置いている感覚が身に付いている者からすると、不変という感覚はにわかには受け入れがたい。

キリスト教のうちある宗派は「決定論」を支持しているそうだ。その人たちの世界観によると、世界の出来事は全てすでに決まっていて、すでに書き終えられた本のようなもののように感じられているらしい。そして、現在という時間はその本の一行一行を読み進めている事に相当する。
とは言え現在を生きる我々は時間の進行にとらわれており、そこから逃れることが出来ず、また確定されている未来を知る事も出来ない。そういう意味では決定論と非決定論のどちらも、人々の日常生活においては何も変わる事は無い。
ただ時間を超越した神だけはその世界の時間においても空間においても偏在している。という事で、そういう意味で真の意味で神は永遠という事らしい。今を生きる我々にしてみれば日々物事は移ろいゆくもののように見えるが、実際には映画を再生しているように、決まったとおりに事は進んでゆくだけだ。つまり、その映画を所有している神から見るといつ見てもどこを見ても何回見ても変わらない世界は全体としては「不変」と言える。

結局、色とは主観なのだ

今年も埼玉の新しい村で蕎麦粉を買った。早速蕎麦がきにして食べているのだけで、今年のも大変美味しい。写真のこれはすでに半分食べた状態。

新しい村に行ったのは別にわざわざという訳ではなく、実は近くの警察に落とし物を受け取りに行ったのだった。その落し物とは、背景にある紺色のジャケット。私はこのジャケットをずっと紺色だと思って着ていた。

その数日前、東武動物公園にこのジャケットを着て行った。遠足の撮影だったのだけど、帰りに気が付いたらジャケットが無かった。下げカバンに巻いておいたのが落ちてしまったのだ。

それで東武動物公園に電話をしたら「紺ではなくて黒いジャケットなら届いていた。警察に届けた」と言われた。それで警察に電話をしたら「紺も黒も届いていないが茶色い物は届いている」と言われた。当日も、窓口の方からは、本来なら申告された色と現物の色が違う場合はお渡しできないのだけど・・・と言われた。

このジャケットは一体何色なのだろう?

「AIみたい」という誉め言葉とハルシネーション

これはこのあいだ家族で行ってきた奥多摩湖。この写真を見た家族からは「凄い、なんかAIみたい」と言われた。(因みに写真が白っぽいのは50年前のレンズだからです)

生成AI。私が最初に見た画像は宇宙服を着た人が馬に乗っている絵だったろうか? googleの研究室が作った、ろいろな所がグルグルと渦巻いて至る所に目玉が描写される悪夢のような絵も覚えている。
それが最近はどうだろう。一見写真と見まがうような美男美女の画像。それにまるで本物のようなフェイク画像や映像が世間に出回っている。イラストについてはもう、特にラフスケッチに関しては人の手で描かれたものなのかそれとも生成AIによるものなのか、私には見分けが付かない。

しかも、生成AI、特に最近のモノは本当にセンスが良くて驚く。もう本当に。
人間が撮影した写真をAIみたいと言って褒めるのは、現在の所冗談のようにも聞こえるが、これはそのうち冗談ではなくなるのかも知れない。今は産業革命にも匹敵する時代の変革期と言っても良いと思う。

ところで、生成AIと言えば今のところ避けられないのがハルシネーションである。
ハルシネーションとは、AIが抱く妄想の事。生成された成果物の中にシレッと妄想による嘘が混じっていて、しかもあまりにも自然に、堂々と、自信満々に書かれるので、それを読む人の側に正しい知識が無いと騙されてしまうあれである。
これは本当に恐ろしいもので、今のところAIに重要な仕事を任すことが出来ない大きな理由でもある。とは言え、ハルシネーションは人間でも起こす。と言うか、人間の生活は妄想の上に成り立っていると言っても過言ではない。

私は先日、興味深い夢を見た。
その時、私は死んだはずの父親となぜかハードオフにいて、中古のカメラを眺めていた。
父はショーケースの中に有るカメラの一台を、昔見た映画の中で登場人物が使っているのを見た事が有ると言った。そのカメラはニコンF3のハイアイポイント、しかもモータードライブにストロボグリップまで付いている物だった。

彼が何の映画だったか思い出そうとしていたので、この場でスマホを使ってググって見ようという話になった。それで、ならこれを使えと言って父から手渡されたスマホは、スマホでは無くて携帯ゲーム機だった。
なんだこれは、こんなのではググれないよ、もうイイよ自分のを使うよ。と言って自分のスマホでググろうとした。しかし何故か検索の画面にたどり着くことが出来ず、もうどうしてもネットで検索することが出来ないでいた。非常に焦った。

この焦りと苦しみがMAXになった瞬間、目が覚めた。

目覚めてすぐに感じたのは「ああ、人間の脳というのは嘘が付けないものなのだな。仮に夢の中でググる事に成功しても、出てくる情報は自分が知らないものに関しては嘘なのだ。だから今回、googleの画面を見ることが出来なかったのだ」という事だった。
しかし今、枕元にはいつものスマホが有る。
私は早速、夢の中で見た情報をGoogleで検索してみた。すると、件の映画は松田優作がカメラマン役を演じている映画「かまいたち」という作品であることが分かった。

・・・という所までが夢だった。つまり、夢の中で見たググって出て来た情報というのは大嘘の嘘八百、ハルシネーションだ。

新しい村で蕎麦粉を買った

仕事帰りに、宮代町の「新しい村」に寄ってみた。

名前からして武者小路実篤の「新しき村」を連想させるのだけど、パンフレットを見る限り無関係のようだ。しかしそこには、”新しい村にかかわる全ての人が「農」という地域資源を媒介として「新しいコミュニティ」や「新しい価値観」を創造しそれらの仕組みを町全体に広げていく拠点にしたいという考えから名づけられました”と書いてあって、単に農産物を販売する道の駅のような施設ではなく、深い思想に基づいて作られ運営されている組織らしい。

とは言え、ここは売っているものも雰囲気も道の駅と言う感じでだれでも気軽に寄れる。そして値段が安い。そば粉が売っていたので買ったのだけど500gで550円だった。

そば粉は若干緑色をしていた。これはおいしいに違いない。早速蕎麦がきにして食べた所、香りが強く味も濃く、大変おいし。

蕎麦がきを知らない人がいるかもしれないので念のため書くと、これは蕎麦粉に熱湯を注ぎ、手早くかき混ぜただけの原始的な料理。出来上がりは丁度、何も入っていないお好み焼きの表面を剥いだ内側の部分みたいな感じになる。
生醤油とワサビを付けて食べるのが一般的だ。想像通りの味ではあるのだけど、これが蕎麦粉の味を純粋に楽しめるものだとして蕎麦好きの間では食べ継がれている。

所で、ふと「蕎麦がきが有るのにうどんがきが無いのは何故だろう」と思った。それで、小麦粉でうどんがきを作ってみた。写真を撮りながらの作業だったので少々ダマダマが出来てしまったが、やってみると案外それらしいものが出来る。
味も絶望的と言うほどでも無くて、例えば非常時なら小麦粉の一つの食べ方のとして有り得るかもしれない。とは言え蕎麦がきが蕎麦粉のおいしい食べ方として積極的に選択肢に入るのに対しうどんがき(とここでは呼ぼう)は、何もこんな事をしなくても他にもっとおいしい食べ方が有るでしょうという感じで、現在の世の中の成り立ちにはそれなりに理由が有ると知った。

余寒見舞い申し上げます

暑中見舞いには残暑見舞いが有るのに、寒中見舞いに残寒見舞いが無いのはなぜだろうと思ってググってみたら、ちゃんと有った。「余寒見舞い」と言うそうだ。暦の上では春とは言えまだ寒い2月~3月上旬に出す挨拶状との事。

季節の挨拶状は年賀状の他、寒中、余寒、暑中、残暑が有るそうだ。しかし、何で年賀以外はみな揃いもそろって「見舞い」ばかりなのだろう? 見舞いと言えば病院に入院している人を訪ねる事を連想するのだけど、それ以外に何か深い意味でもあるのだろうか?

例えば挨拶状に「どう最近? なんか面白い事有った?」と書いたとする。これは対面での挨拶では有り得る。でもこれがハガキで来ると多分面食らって、自分はいったいどうしたら良いのだろう? 返事を書くべきなのか? などと考えてしまうと思う。
かといって最初から自分の事ばかり書いてしまうと、送り付けた感が強い。なので、挨拶状は適度に気遣いを感じさせかつ返事の手間を取らせない”見舞い”辺りに落ち着いた、という所なのではないか。

しかしそう考えると春ってなんにも見舞うネタは無いなぁ。花粉くらいかな。

機械に気持ちは通じるのか?

今朝は新調したPCが素直に立ち上がってくれなかった。

昨日深夜にそれまでそのPCでしていた仕事を終えた後SSDからUSB経由で外付けのHDDにデーター移動を開始したら、残り時間が1時間以上と表示されていたのでそのまま寝た。そうしたらそれがいけなかったのか、復帰しようとしてもファンがゴーゴー唸るだけで画面は真っ黒のままになってしまった。 根元から電源を入れなおしても同じ。

蓋を開けてマザーボードを見たらCPUトラブルの赤ランプが点灯していた。
冗談じゃない忙しいのに・・・

と、いうような悪態は付かない事に、私はしている。それより、必要なのは愛なのだ。
私はそっとマザーボードの電池を取り外し、悪い記憶が消え去るまで待った。

おもむろに電源を入れてみる。
ファンが回り、CPUクーラーとメモリーのLEDが光った。しかし、反応が無い。
初回起動時にはマザーボードのチェックが部品全てについて詳しく一回りするので、立ち上がりに時間がかかる。焦ってはいけない。 私は再び待った。すると、やがてPOSTチェックのLEDが点灯し始めた。徐々にチェックの場所が変わってゆく。 気持ちは通じたのだ。愛している。

因みに去年の末まで使っていたPCは、25年以上使ってファンも寿命が来ていた古いケースを処分して、新しく買った白い色のケースに入れ替えて、リビングで使っている。

これも、Ryzen 9 3900Xにメモリー64GBというYoutubeを見るだけにはもったいなすぎるスペックなのだけど、奥さんからはあんたは高級品を買ってこっちには古部品を回したと評判が悪い。 それでそのPCは白く塗った墓なんて言われる。表は美しいが中身は死体が詰まっているって。
いい名前だな。

サンタクロースは誰なのか

昨今、世間一般ではクリスマと言ってサンタクロースからプレゼントを貰うことが一般化しているらしい。なぜそのような事が分かるかと言うと、今の時期保育園ではそのようなイベントが沢山見られるからだ。
この間撮影に行った保育園でも、全園児を集めた教室にサンタクロースがやって来るというイベントが行われた。例の赤い服に身を包んだ彼が後ろの扉を開けて部屋に入ってくると、怖がる年少の子どもたちの泣き叫ぶ声が部屋中に響き渡った。
しかもそこに正体を見抜いた子どもたちの「わー何々君のお父さんだー」という声が重なって、もうわけがわからない。自分たちは一体何をしているのだろう?という感じがした。

実は私の実家ではクリスマスにプレゼントを貰うというような習慣は無かった。と言うかもう小さい頃から、あれは嘘なのよと親から教えられていていた。振り返ってみると、それは自分にとっても良いことだったのかもしれない。
でも友達に、「サンタクロースは実は親なんだよ」と真実をバラしていたのは良くなかったかもしれない。