Summer’s Cauldron

お盆である。この日辺りには、死者は黄泉の国から自分の生活していた地域に帰ってくる(事になっている)
しかし、自転している地球は太陽の周りを公転しており、しかも太陽系は銀河系の中において常に移動し、しかも銀河系も宇宙の膨張に伴い移動し、相対位置は常に変化している。
にも関わらず、霊はよくピンポイントに地球上の一つの場所に帰ってこられるものだと思う。
大体、霊が回転する地球上に、上空に吹っ飛ぶことも地面深くに潜り込むこともなく位置を固定出来るのは何故なのだろう。霊と、電磁力や重力は相互作用のうちのあるという事なのか?*1

私は別にそういう死後の命や魂を信じる口ではないが、しかしさらに無意味に疑問を持ってしまうのは、どうして人は死に際し、肉体から霊へと変化する体に意識を引き継いだり出来るのか?という事である。霊になった自分は自分が自分である事を知るのだろうか? 無事自身が霊にコピーされたとして、その時まだ肉体が生きていたとしたら自分が世界に二人いるという事にならないか? そしてコピーはコピーに過ぎずやはり一方は意識を含め存在が消えるのではないか? と言うか、そもそも今朝起きた自分は昨日の夜に寝た自分なのか? 本当の自分は実は昨晩死んでしまっているのではないか?*2

自分は朝起きなければいけない時はスマートフォンの目覚まし機能を使って起きるのだけど、その際に鳴らす音はベル音の代わりに上記Youtubeのリンクにある、XTCの”Summer’s Cauldron”を流すように設定している。
「どうか構わないで欲しい。此処にいるのは自分の望んだ事なのだ」という歌詞がどこかこの世とあの世の境を思わせるこれを、私は中学生の頃に初めて聴いてその時から好きだった。自分の葬式の時にかけて欲しい曲だし、死んだ後しばらくしてからもかけて欲しいと思っている。
この曲を頼りに銀河系の太陽系の地球の日本の八王子の場所を特定するのだから。

*1 何年か前、これをテーマにひと続きの写真を撮影した。東急田園都市線沿線を何日か歩いてモノクロで仕上げた写真は自分で見てもなかなか良かったと思う。
因みにその時に考えていた仮説は、「霊とは人の頭の中にあるものである」だった。
と言っても、それは人が勝手に頭で考えたり感じたりするものではなく、生きている人間の脳の機能を間借りして生きる生命体があって、寄生された人間は普段はその事に気づかないのだけど、磁場の影響で時たまその生命の活動の影響が意識に漏れ出してしまい、それを霊として感じる。という設定にしていた。

*2 哲学に詳しい人の為に付け加えると、この話の前提には”意識は脳が引き起こす物理現象である”がある。現代を生きる私は、二元論の立場を取るのには余計な知識を得てしまっている。

価値ある70ml

客先でペットボトル入り飲料を頂くことが有る。暑い季節、有り難いことだ。
でも大抵は持参の水を飲んでいるので、それは開けないで持って帰ってきている。

写真はそんな頂いたミネラル麦茶の瓶。メーカーも中身も同じなのに、よく見るとサイズがそれぞれ違う。左から、600ml、650ml、670mlだ。
いや、コカ・コーラのように、350ml、700mlという種類なら用途で別れている事が解る。しかし、何故ミネラル麦茶はこのように細かなサイズ違いの商品展開になるのだろう?

とは言え、体に水分が必要な暑い夏は一口でも多いほうが有り難い。もしかするとこの追加の70mlが生死を分ける、なんて事もあるのかもしれない。

所で、水分が生死を分けるで思い出したのだけど、砂漠で人が死んでいるのを発見すると、何と、大抵その人の持っている水筒の中にはまだ水が残っているのだそうだ。「この水を飲み終わると死ぬ」とか思って飲み水を節約しているのかもしれない。
ここから、持てるリソースは勿体ながらずに適切に活用せよ、という重要な教訓が得られると思う。(頂いた麦茶を勿体ながって飲まず、ただの水を飲んでいる自分が言う教訓でもないが)

エア・ジョーダンという名称

奥さんがAmazonprimeで何か映画を見ているのをちらっと見たら、その画面には古い車が走り登場人物たちはオフィスで緑色に光るテキストベースのPCを利用していて電話がチリンと鳴ったら耳に当てると喋るところが口に来る何の画面もついていない受話器を取って話している。
これは80年代の映画なのかと思ったら、最近の映画との事。

私はその映像に目を奪われた。古い。そしてダサい。昔は本当にああだったのか? 
いやきっと誇張しているのだろう。自分が若い頃に見た「バグダッド・カフェ」だって「ベルリン天使の詩」だって、80年代だったけどもうちっと普通だし、普通に格好良かった気もするぞ。

因みに奥さんが見ていたのはナイキがマイケル・ジョーダンと契約してエア・ジョーダンを売り出すという映画「Air」だった。
私が見たのは最後の方のホンの少しの部分だったのだけど、映画自体は面白そうだった。

しかし、ヒット作「エア・ジョーダン」は面白い名前の靴だと思う。みんなよく買うよなぁ弟も持っていたし。
これが「空気吉川」なら名前だけを理由に忌避される事は予想に難くない。

自転車でもヘルメットが必要と言うけれど

今年の四月から、自転車に乗る時にもヘルメットを被らなければならなくなった。
しかし今の所、町を見渡してみても、スポーツ自転車は例外として誰も被る様子は見られない。
昨日も仕事で八王子~千葉間を車で移動したが、ヘルメットを被って所謂ママチャリに乗っている人はほとんどいなかった。
唯一、お婆さん一人が被っていたのだけど、その被っているヘルメットはスポーツタイプのいわゆるアミガサタケヘルメットでよく言えばカッコ良かった。でも多分今はそれしか手に入らないのだろうという印象を受けた。あのデザインは何とかならないものか。

自分のいる場所が自分で分かる事

始めて行く場所には独特の感覚があり、何を見ても新鮮に感じる。
この感覚はどの位続くのだろうかと思う。
例えば私は八王子も引っ越して来て5年になるのだけど、もう近所の大抵の場所に行っても馴染みの場所と感じる。でも、引っ越してきた当初はどこにいても、それこそ自分の家にいても自分は旅人のように思えた。

マウスの場合、特定の場所と連動して活性化する脳の場所が有る事が分かっているようだ。それには「場所細胞」という名前がついている。

人間にも似た仕組みは有るのではないかと思う。とすると、実際の物理的に自分の普段いる場所というのも人の脳を実際文字通りの意味で形作っているものであり、なので人にとって場所というものは相当大切なものなのではないかと思ったりする。

そしてこれは人から聞いた話なのだけど、家を新築したら同居していた親が自分の家にいることが分からなくなってしまい、折に触れて帰りましょう帰りましょうと言うようになってしまったというのを聞いた事がある。それは本人にとってはきっと辛い感覚なのだろう。

サンタクロースについて思うこと

発表会の飾りに使われた風船を頂いた。本当は花束のように整えられていたのだけど、帰りに山道を走っていたらカーブでバラバラになってしまったので自分で差し直したら結構難しくて、これは華道、いや風船道だと思った。

しかし、”メリークリスマス”である。若い頃は謎だった。何でクリスマスを祝う親は子供に、いずれは絶対にバレるサンタさんがおもちゃをくれるという嘘を付くのかという事が。

これは想像なのだけど、自分の子供にサンタクロースの嘘を信じさせる親の動機は、子供に自分の言うことを聞かせるための権威として利用したいという事なのではないかと思う。つまり、
「あたしの言うことを聞かないと、サンタさんがおもちゃをくれないよ」と言って子供を従わせたいのではないかと。

なら、何で親である当人がおもちゃのプレゼント与奪件を掴んで行使するというスタイルにしないかと言えば、理由はだいたい次のようなものだと思う。

・親の理不尽な要求に対する不平不満が直接親に向かう事を避けられる。
 なんせサンタさんのする事なので、自分はコントロール出来ないという体を装うことが出来るので。

・親の目の届かない所でも、想像上の監視の目が光っていると恐れさせることが出来る。
 サンタクロースの目はあまねく全地を見張っていると子供が勝手に想像を膨らまさせ、こちらが言う以上のことを恐れたり敬ったり喜ばせようと努力させることが出来る。

つまり、サンタクロースの嘘を信じる子供は勝手にいい子になってくれるのだ。凄いなサンタクロース。

夏が終わる

昔聴いた「夏が終わる」という歌の歌詞の中に「謎のような人の裏切り 白い鎧戸が閉じられる」という一節があって、それがいつまで経っても忘れられない。

人の一生を季節にたとえると、夏は大切な時期だ。その大切な時期には自分がしたいことを自分の責任でするのが良いと思う。何をしてても時は過ぎてしまう。

人のために尽くすのは、一般的に行ってそれは良いことだと思う。ただ、それは相手が本当に喜ぶ時に限り、その範囲に限る。
人を支配しようとしても、人の支配に甘んじても、良くないのはそれが言い訳になってしまうことだ。自分の人生の責任は自分自身で取らなければいけない。

寝る前に思いついたことを朝思い出すと恥ずかしい

夜寝る前、それこそベッドに入り眠りに落ちる前、頭の中には色々な考えが浮かんでくる。
別に考えているわけではないのに自動的に、まるで夢を見ているようで、時には自分で自分にインタビューして、それに対して自分で「うーん、そうですね」とか答えていて、お前は一体誰だ? と自分でも思う。

昨日の夜はっと気が付いたのは「辛いものを食べること、さらに、辛い料理の唐辛子の量が美味しく楽しんで食べる量を超える事、これは創造的行為ではないか?」というものだった。
単なる楽しみを超えて、追求のさらなる高みに向かい辛い道を進む事(からいではなくてつらいと読んでください)は、芸術を追求する姿勢に他ならない!

そして朝。何でこんな事で興奮していたのだろう? と思う。お腹も痛いし。

トコットのバンパーを取り替えた

車の後ろをぶつけてしまったので(スミマセン)、壊れたバンパーを交換した。と言っても、Yohooオークションで適合する中古部品を買って、文字通りプチプチと外して付けただけ。簡単なものだ。(安くはなかったけど)

バンパーと言えば私は小学生の頃、車に詳しい友達に、車のボディ全てをバンパーで作ったら衝突しても壊れない車が出来るのではないかというアイディアを語った事がある。しかし、彼が言うには「そんなの重くて走らない」との事だった。
そうなのである。昔の車のバンパーは厚い鉄板を折り曲げて出来ていてとても丈夫だけどとても重くもあった。

それに比べると今の車のバンパーはペナペナのプラスティックだ。軽いのはよいのだけど衝突の衝撃から車を守るという機能は殆どない。
どちらが良いのかは一概には言えないが、でもこんなにペナペナならば、いっその事車全体をゴムとかウルトラマンの表面とかのように柔らかくしてくれれば良いのにと思ったりもする。少なくとも、よく車を擦ったりぶつけたりする自分としてはそっちのが嬉しい。

因みに今回の経験で解った事として、どうもバンパーにヒビが入ると車の走りが変わるらしいというものが有る。具体的に言うと割れている方がスピードが出る。
理由は、上の写真だとヒビは手で押し込めてあるのでわかりにくいが、ヒビはタイヤハウスの上に有り、ここから空気が抜ける事が空力に良い作用をしていたからなのではないかと想像する。

しかしまたこれには、傷の入った車を走らせることの心理的作用もあるのかもしれない。傷を人に見せびらかしたくて無謀な運転をする心理だ。もちろんこれは無意識下のものであり、この手の欲望は前頭葉が抑えているものなのだけど、トコットのアクセルペダルは敏感なのである。

平和なのが望み

ブログの更新についてはずいぶん間が空いてしまった。この間、書くことが何もなかったのかというとそうでもなく、お陰様で仕事はずっと春夏冬中(商い中)だったし、そうすると当然いろいろなことも有る。

例えば、この間は仕事中に自分の車をぶつけてしまい、精神的にショックを受けた。
そんな自分を元気づけようと帰り道に海に寄った。
そこの売店でビリヤニ(スパイスで味付けをした美味しい炊き込みごはん)を注文したら売り切れだった。それは前から食べたいと願っていたものなので大変残念に思った。
仕方なく、せめて貝でも採れたら慰めだと浜辺で穴を掘ったのだけど、食べられる貝は出てこない。
ふと我に返り周りを見ると、自分のようにスーツに革靴で海に来ている人は誰もいないかった。

という具合で、ことブログのネタについては事欠かない。もともと自分は物事が出来ない割に色々勝手な妄想はするタイプなので、傍から見ると人生まるで落語なのである。

だがしかし、ここ最近の世界情勢をみるにつけ、自分のそうした日常は全くくだらないものだと思えてしまう。本当にどうでもいいと思う。

とは言え、ほとぼりが冷めたらまたくだらない日常の感覚に戻るのかもしれない。いや、戻って欲しい。自分のことばかり考えるのは良くないけれど、でも自分の手の届く範囲で自分のことを存分に考えて笑って暮らせるのは平和の恵みだ。