遠くを照らせ!

年末というと物が欲しくなるのは何のせいだろう?
今年もまた要りもしない懐中電灯を買った。

最新型のLEDの性能はやはり凄くて、手のひらに収まるサイズでありながらカメラのフラッシュと同等の明るさを放ってくれる。なので、暗闇でもこの通り、写真が撮れるのである。(なので当然経費になる)

買ったのは、SOFIRNのIF22AとSF26。
会社の名前はずっと呼び方が分からなくてソフィルンかなと思っていた。でもYoutubeでアチラの人が「ソフィーン」と発音していたのでそれが正しいのだろう。にしては変な所にRが入っている感じがする。

性能はカタログ値でIF22Aが680m、そしてSF26が何と964mまでも光が届くとなっている。
でも実際に野外で試してみると、八王子は川の近くで霧がちな事もあり光はどちらも200m位までで霧に反射してぼやけてしまい、それより先を見通すことは出来なかった。なので実用的にはあんまり光を絞って遠くを照らしても意味がなく、それよれよりはどちらかと言うとIF22Aの方がスポットが広くて近くも見やすいと感じた。

どちらのライトもTIRレンズで集光しており、スピル(暗い明かりが広がる範囲)はとても広く足元まで照らしてくれる。それでいてスポットはしっかり集光していて遠くも照らせて、これは非常に非常に良い。こんなライトは他にはあまりなく、なので明るく実用的な懐中電灯をお探しの貴兄にはぜひオススメしたい。

電池は汎用リチウムイオン電池の21700なのだけど、電池付きを購入すればライトのUSB端子から充電できるので特に充電器等を買い揃える必要はなく、普通に充電式ライトとして使える。電池の蓋を開けるのも最初に絶縁用の紙を取り除く時くらいだろう。

一応公式ホームページへのリンクを張っておく。ちなみに私はAliExplessで購入した。

https://www.sofirnlight.com/products/sofirn-if22a-rechargeable-edc-flashlight-spotlight-max-2100-lumens

https://www.sofirnlight.com/products/sofirn-sf26-flashlight-max-2000-lumens

跡あるいは記憶

私は最近、以前は何かだった所という写真を撮ろうとしているのだけど、その事を奥さんに言ったら、全ての場所は以前何かだったと指摘された。
いやその通りである。だが違う、と言いたい。何が違うのかこれからその説明をしたいと思う。

で、このお店は、一昨日ここにオープンしたらしい 鶏白湯専門店 つけ麺まるや 楢原店 。
このお店は以前は牛骨ラーメンを全面に出して売っていた中華料理屋 味府 という店だった。でも、奥さんにあそこの店舗に新しくラーメン屋が入ったよと教えたら彼女は「ああ、元カレー屋さんだった店ね」と言った。

それは確かにそうなのである。しかし、この店舗は我々が八王子に引っ越してきた当初は蕎麦屋の増田屋だった。GoogleMapで調べる限り、それよりも前からずっとここは増田屋であった。第一、瓦屋根の店舗付き住宅という建物の感じからしても増田屋である。
それがしばらくして店はたたまれ、それから少しの間はただの住宅として利用されている期間が続いた。私も家族に、”店舗付き住宅は住居人が廃業しても店舗は有効活用されない”の例として挙げていたので良く覚えている。

所が地域住民としては喜ばしいことに、跡にカレー屋の マサラ が入った。金属のお皿で大きいナンと器に入ったカレーが供される所謂インネパカレー屋なのだけど近くにできたのは嬉しくて、我々夫婦は、開店当時一度行ってみている。

味はどちらかと言えばマイルドな感じだったけど、普通に美味しかった。しかし、コロナ禍の影響か残念ながら閉店してしまった。我々が食べている最中に店の人の娘さんと思しき小学生が店に入ってきて厨房奥の住宅への入り口から家に登ってゆくのが見えたのも印象的だった。あの家族は閉店と共に住居も失ってしまったのだろうか? これも店舗付き住宅の問題点として家族に挙げていたので良く覚えている。

それで次に出来たのは中華料理屋さん。美味しそうだなぁ、いつか来てみよう。と思いつつも気づいたらこのとおりである。やりたいと思った事は早めにするべきだった。しかしやはり、一度も行っていないので店の名前さえ覚えていない(この記事を書くために調べた)。

この一件で解ったのは、「跡」というのはその人が強く思う記憶の事であるということだ。この場所について我々の記憶に残っているのは行ったことのない中華料理屋でも蕎麦屋でもなく、あのいかにもアチラの方が作っていたカレー屋さんのマサラなのである。それで奥さんも今のラーメン屋について「カレー屋さんの跡」と言ったのである。

「跡」とは人の記憶あるいは思いの事であるとすると、随分哲学的なテーマだなと自分でも思う。

所で哲学と言えば、ここのつけ麺まるやをGoogleが表示するニュースは「町田多摩境より移転オープン」と表現していた。
でもチェーン店のうちの一店舗が閉店し一店舗が開店する事を、果たして「移転」と言えるのだろうか? この店はチェーン店だし、場所も、歩いていける範囲ならまだしも隣町のしかもかなり離れた所なのである。
ピンとこないというのであれば電車で何駅も離れた隣町のマクドナルドのうち一店舗が閉店したと同時に近所にマクドナルドが出来た所を想像してみてほしい。これを「移転」と呼んているようなものだ。
店の移転とは何か。これは哲学における思考実験「スワンプマン問題」を想起させる。

窓から見える干し柿

親戚から渋柿を頂いたので、干し柿にする為に軒先に吊るしている。
と言っても特別な事をしている訳ではなく、ただ皮をむいて干しているだけだ。これで美味しいお菓子が出来るのだから楽しい。

それにしても、食料がいつも見える所にあるというのはなかなかイイ感じがする。これは多分、本能的に嬉しさを感じているのだと思う。

独占企業も時代の流れには勝てない

ここは利根川は千葉県は下木の北側の川縁。
ここには江戸時代の昔から明示の初期まで河岸があり、水運に関す権利料の徴収で地元は栄えたそうだ。この近所には蔵を資料館にした「吉岡まちかど博物館」があり、この地の歴史の一端を見ることが出来る。

もともと資料館となっている蔵を所有していたのは吉岡家で、当時は幕府による許可の元遊覧を中心とした旅客業務を独占的に行っていたそうだ。

それが明治になって衰退した直接の原因は、川に高い堤防が出来たからだと職員の人から聞いた。それで、自分でその川を見に行ったのだけど、確かに物流にこの堤防は不便かもしれないが人間が観光に行き来する妨げになるほどのものとは思えなかった。現に今でも東京の屋形船は堤防越しに乗り降りしている訳だし。
水運の物流拠点としてのこの辺りの価値が、鉄道や道路網の整備によって全体的に下がり、地域経済が停滞し、それでこの辺りで贅沢な遊びをする人がいなくなったという事なのかもしれない。

今まで栄えてきた場所が時代の流れによって廃れるというのは仕方のないことだ。
でも、これからの将来の計画に今現在の需要を過度に重視するのは危険だと思う。今日本ではインバウンド需要を見込んで投資がされているようだけど大丈夫なのかなと、この河原を見ながら少々心配な心持ちになった。

どうせ死ぬのならお煎餅を食べたい

ウチの近所にあるお店、陣馬せんべいは、濃い味の付いた「味噌せん」が売りだ。硬いせんべいの表面に甘辛い味噌が厚くコーティングされたそれはなかなか美味しい。
これは本来は高級品なのだけど店頭には時たま割引価格の割れせんべいも売っていて、食べたくなった日にはそれを買いに行っている。

しかし考えてみるとこの、食べたくなるという感覚は面白い。頭の中にそれが想起されると、それの存在が前提とされる未来が思い描かれ、それに対する渇望がますます強くなる。
食べたいと思うことによってそれは世の中に存在する様になると言い換えても良い。

最初の一つがこの世に登場した理由は単なる偶然なのかもしれない。
江戸時代、茶屋のおばあさんが売れ残った団子を川に捨てていると、それを見たお侍さんから、「そんな勿体ない事はやめなさい。平たく伸ばしたうえで網で焼いて御覧なさいと」言われて試しに客に供してみたら大ヒット! 因みにそのおばあさんの名前はおせんさん。それで作ったお菓子はお煎餅と呼ばれた。
てなところだろう。
しかし、そのようなものが今日まで存在し得た理由は、今なお人々から思い起こされるからに違いない。人が思うことによってそれは世の中に存在し得るのだ。

Will You be my yellow?

自分は英語は全く出来ない。I Can’t speak English.No,It’s honest.I’ve Nothing any more.Sorry. である。
実際、中学生の時はほとんど授業にはついて行けず、高校でも卒業時に英語の先生から「余裕でクリア」と評価される成績だった。(クリアが目標レベルだったという事です)

第二言語、特に英語が出来るというのは、今の社会で生きて行く上で、とりわけ自分から何かを発信しようとする人間にとっては必要な事だと思う。そういう意識だけは有る。
なので、自分も勉強していない訳では無くて無料で聴けるNHKのラジオは朝の15分聞いていたりする。
もう随分長く聞いている。「ハートでつかめ! 英語の極意」が朝の時間に始まったのは何と5年前。途中お休みもしたけれど、それより前にやっていた遠山顕の「英会話入門」から聞いていたので、もしかするとラジオだけは都合10年は聞いているのかもしれない。しかしベッドの中で寝ぼけて聞いているのがいけないのか、これが全く出来るようにはならない。

嘘ではない。時たま奥さんがふざけて英語で何かを問いかけてくる事が有るのだけど、こちらからは何も喋れない。それでムキーッとなっている私を見て喜ぶ君は意地悪バンパイアかと思う。

夜、床についてから眠りに落ちるまでの少しの時間、頭の中で複数の誰かが喋っている声が聞こえることが有る。勿論これは幻聴であり、自分の頭が作り出した音声である。この喋っている内容は大抵、自分で聴き取ることも出来る。日本語で喋ってくれている時は・・・
でも彼らは英語で喋っている時がある。自分の頭が作り出している音声のはずなのに、これが何を言っているのか自分でも全然分からない。

プルースト効果的な何か

今発表会で録音した音源の編集を行っているのだけど、つい演奏を聴いてしまって捗らない。
今回はプログラムの中にマクダウェルの野薔薇に寄すが有った。久しぶりに聴いた。

比較的シンプルながら情緒的なこの曲は確か、NHK教育(ってこれ自体懐かしい)が午前中に、学校の視聴覚室で見せる為に放送していた理科の番組の中で、実験等の場面で流れていた。
例えばこま撮りで撮影された植物や昆虫が成長してゆく様子の美しい映像のバックに流れていたような気がする。

風邪をひいて学校を休んだり次の日はサボりで休んだりした時にそのTV番組を見て退屈な時間を過ごしていたのだけど、曲を聞くとあの時の光景が思い出される。

香りが記憶を呼び起こすことを「プルースト効果」と呼ぶそうだが、音楽を聴いて過去の記憶が呼び覚まさる事に名前は付いているのだろうか?

Summer’s Cauldron

お盆である。この日辺りには、死者は黄泉の国から自分の生活していた地域に帰ってくる(事になっている)
しかし、自転している地球は太陽の周りを公転しており、しかも太陽系は銀河系の中において常に移動し、しかも銀河系も宇宙の膨張に伴い移動し、相対位置は常に変化している。
にも関わらず、霊はよくピンポイントに地球上の一つの場所に帰ってこられるものだと思う。
大体、霊が回転する地球上に、上空に吹っ飛ぶことも地面深くに潜り込むこともなく位置を固定出来るのは何故なのだろう。霊と、電磁力や重力は相互作用のうちのあるという事なのか?*1

私は別にそういう死後の命や魂を信じる口ではないが、しかしさらに無意味に疑問を持ってしまうのは、どうして人は死に際し、肉体から霊へと変化する体に意識を引き継いだり出来るのか?という事である。霊になった自分は自分が自分である事を知るのだろうか? 無事自身が霊にコピーされたとして、その時まだ肉体が生きていたとしたら自分が世界に二人いるという事にならないか? そしてコピーはコピーに過ぎずやはり一方は意識を含め存在が消えるのではないか? と言うか、そもそも今朝起きた自分は昨日の夜に寝た自分なのか? 本当の自分は実は昨晩死んでしまっているのではないか?*2

自分は朝起きなければいけない時はスマートフォンの目覚まし機能を使って起きるのだけど、その際に鳴らす音はベル音の代わりに上記Youtubeのリンクにある、XTCの”Summer’s Cauldron”を流すように設定している。
「どうか構わないで欲しい。此処にいるのは自分の望んだ事なのだ」という歌詞がどこかこの世とあの世の境を思わせるこれを、私は中学生の頃に初めて聴いてその時から好きだった。自分の葬式の時にかけて欲しい曲だし、死んだ後しばらくしてからもかけて欲しいと思っている。
この曲を頼りに銀河系の太陽系の地球の日本の八王子の場所を特定するのだから。

*1 何年か前、これをテーマにひと続きの写真を撮影した。東急田園都市線沿線を何日か歩いてモノクロで仕上げた写真は自分で見てもなかなか良かったと思う。
因みにその時に考えていた仮説は、「霊とは人の頭の中にあるものである」だった。
と言っても、それは人が勝手に頭で考えたり感じたりするものではなく、生きている人間の脳の機能を間借りして生きる生命体があって、寄生された人間は普段はその事に気づかないのだけど、磁場の影響で時たまその生命の活動の影響が意識に漏れ出してしまい、それを霊として感じる。という設定にしていた。

*2 哲学に詳しい人の為に付け加えると、この話の前提には”意識は脳が引き起こす物理現象である”がある。現代を生きる私は、二元論の立場を取るのには余計な知識を得てしまっている。

なぜ私は私であるのか

昨日、蔦屋書店で行われた 書籍「なぜ私は私であるのか」の著者であるアニル・セスを招いたトークショウに行ってきました。(勿論翻訳付きです(^^;)

彼は「知覚は制御された幻覚である」と言います。
調べてみるとどうも、意識が見るものや感じるものは予想がかなり入っているそうで、意識は感覚から入ってきた信号を元に作られると言うよりは、感覚から入ってきた情報を元に次を予想して予め作られているらしいのです。
研究者である自分も腑に落ちないなんて言っていました。

本はまだ読みかけなのですが、一般書ですので書き方は平易でとても読みやすく、それでいて内容は非常に非常に面白いです。

因みに後ろの本はルーディー・ラッカーの「人工生命研究室」
アニル・セスが本の中で「ウェットウェア」という言葉を使うので。

WEDGWOODのワンダーラストはWONDERLUSTと書かれる

娘は最近器に凝っているようで、ウェッジウッドのティーカップを買ってきた。
ティーカップなんて、実用上問題ないものが100円ショップで売っているではないか。しかしこれはその100倍以上の値段がするのである。
パッケージも豪華だ。というか、値段の相当な部分がパッケージに割かれていると思う。

彼女が買ったのは、ワンダーラトスシリーズのうちの一客。旅をイメージしたコンセプトだそうだ。
所でこれ、箱を見ると「WONDERLUST」と書かれているのだが、この単語は辞書で調べても出てこない。それで、家族でこれは何を意味するのだろうと話し合った。
私は電子辞書を駆使し、Wonder(驚嘆すべき)、Lust(性欲)という解釈に至った。
しかし、公式のWEBページを見るとどうも違くて、「旅の不思議からインスピレーションを得ました。これで当社ブレンドのお茶を飲めば自宅にいながら世界を旅できます。Bon voyage!」てなことが書いてある。多分、放浪癖を意味するWanderlustとかけているのだろう。まあ、イギリス人の事だ、言外のイメージを膨らませニヒルに笑っているに違いない。

所でウェッジウッド言えば忘れられないエピソードが有る。
ウチの奥さんの実家は以前レストランをしていてそこで雑貨も売っていたので、奥さんはよく上野の問屋、エトワール海渡に雑貨を仕入れに行っていた。
そんなある時、客と思しき上品なお婆さんが店員を捕まえて、商品の在り処を訪ねる場面に出くわした。そのお婆さんは店員に「ウェットジジィは何処ですか」と聞いていたそうだ。

店員は、「ウエッジウッドですね? こちらにございます」と、顔色一つ変えず案内していたそうだ。