寝る前に思いついたことを朝思い出すと恥ずかしい

夜寝る前、それこそベッドに入り眠りに落ちる前、頭の中には色々な考えが浮かんでくる。
別に考えているわけではないのに自動的に、まるで夢を見ているようで、時には自分で自分にインタビューして、それに対して自分で「うーん、そうですね」とか答えていて、お前は一体誰だ? と自分でも思う。

昨日の夜はっと気が付いたのは「辛いものを食べること、さらに、辛い料理の唐辛子の量が美味しく楽しんで食べる量を超える事、これは創造的行為ではないか?」というものだった。
単なる楽しみを超えて、追求のさらなる高みに向かい辛い道を進む事(からいではなくてつらいと読んでください)は、芸術を追求する姿勢に他ならない!

そして朝。何でこんな事で興奮していたのだろう? と思う。お腹も痛いし。

勘違いと思い込み

蒸し暑い朝の事、家の外から、ディーゼルエンジンのようなカラカラという音が聞こえていた。
実はその音の出どころは隣の家のエアコンの室外機で、故障でもしているのだろうか、それが結構大きな音がしているのだ。

でも私ははじめのうち、その音が室外機のものだとは分からなかった。
分からなかったと言うと不正確で、より正確に言えば、マツダのディーゼルエンジンのアイドリングの音だと思っていた。
昨日の夜、隣の家に親戚がそのマツダの車で来て、今朝になって出かける前に車のエンジンをかけてクーラーで車内を冷やしているのだろうと思っていたのだ。
我ながら随分ディテールまで設定された想像だと思う。

しかし、何時間経ってもその車は出発しなかった。(当然だ)
流石に何だろうと思ってチラッとは外を見るのだけど、でも頭にはその「マツダのディーゼル車に乗ってやって来たお隣のご親戚」というストーリーが出来上がってしまっているので、ああその人は車のエンジンを掛けたことを忘れているんだろうな、それで今朝ごはんを食べているんだろうな。ご飯を食べると前にしていた事忘れるよな。とか頭の中で勝手に話を長くしていた。

思い込みと言うのは本当に有害だと思う。

写真が選出されて嬉しかったりした

私の写真が下記リンクの「YSS月間審査員賞 2022年6月」に選出された。
大変名誉なことである。

https://note.com/yousawscenes/n/n40709c14c6f4

実の所私は写真コンテストには結構応募しているのだけど、滅多に入選しない。それだけにウチではこの選出は大ニュースなのである。
奥さんなぞ大変喜んでこのページのリンクを実家の親に送りつけていた。

因みに選ばれたのはこの写真。

しかしこの写真は一体、何なのでしょう?
この点選評にも「語弊を恐れず言うなら、見る人によっては「つまらない写真」に映るかもしれません」と書かれている。それを読んだ奥さんも、その通りね! と強く同意していた。そこだけ読まないで欲しい。

マンデリンの味

生まれて初めて、コーヒー豆を買ってみた。自家焙煎の豆を客が自分で選んで買う専門店で。

店がそこにある事自体は前から知っていた。自宅から自転車に乗って浅川沿いを日野方面に向かうといつもその店は見えていた。見えるだけに留まらず、焙煎の甘い香りを漂わせる日もあった。

いつかここでコーヒーを買おうと思いながらその店の前を通り過ぎる3年の間、買わない事に全く理由は無かったし買うお金が無かったわけでもなかった。つまりいつ買っても良かった訳だけど、逆にそういう恵まれた環境ではあまり行動は起きないものだ。

しかし、きっかけというのも突然にやってくる。今回のそれは多分、その日IKEAでまたまコーヒーミルを見たのが主な要因なのではないかと思う。

そのコーヒーミルは買ったのではなく見ただけである。大体ウチではあらかじめ挽いてあるコーヒーを買ってきて利用しているので、コーヒーミルは使わない。だから別に関係ない筈だ。
しかしただコーヒーミルを見るだけで、そしてほんのちょっと、コーヒーミルの有る生活を思い描いただけで(しかもそれは粉挽いた後の掃除は面倒くさいな、買うのやーめた、と考えただけだったのに) コーヒーを買ってしまうというのは、我ながら影響受けすぎだと思う。

肝心の味はと言うと自分ははっきり言ってコーヒーの味は分からない。なので、このちょっとお高めのコーヒーも飲んだときには特段美味しいとは思わなかった。むしろ普通のコーヒーだと思った。
でも、次の日の朝にいつも飲んでいるブレンドコーヒーを飲んだら、普段は何とも思わないその味の欠点が分かってしまう気がした。マンデリンは味がはっきりしているので、舌に教科書のように働くのだと思う。

なんとなく秩父に行ってきた

奥さんと一泊旅行で秩父に行ってきた。
いきなりのこの写真は浦山ダムの中の展示にあった犬。この、こて絵のような彫刻はなんかパースがおかしいような気もする。しかし前から見るとちゃんとした犬の形に見えるらしい。

浦山ダムは、大抵のダムでは立入禁止になっているダムの横についている階段を登ることが出来る。素晴らしい。興味本位で登ってみた。
最初は入ってはイケナイ場所に入っているようでドキドキした。しかし登る途中で、そのドキドキは長い階段を登ることによる肉体的負荷が原因であることに気づいた。
奥さんははるか上のダム頂上から手を振って、階段を登る私を応援してくれた。上についたら、上から見ると私の髪の毛が薄い事が良く見えたと教えてくれた。

モロモロ豆乳のスープ

昔読んだ小説の中に、登録飲料の話が出てきたのを何となく思い出す。
調査員の報告書という体を取り、国民は一定の年齢に達したら市販のソフトドリンクの中から好きなものを一本選び、それを自分の飲料として国に登録する事が義務付けられている事が報告されるという、何ともけったいな話だつた。
でもそれを読んだ時何となく解る気がした。自分も子供の時、初めて飲む缶ジュースがとっても美味しくて気に入ったら「これボク専用!」とか思ってたからだ。
味と言うのは、人の深い深い所で分かちがたく個人に結びついているような気がする。誰でも心の底に、僕の味私の味が有るのではなかろうか?

写真は昼食に食べたシェントウジャンというスープで、温めた豆乳に酢を加えて固まった所を食べる。固まりかけの茶碗蒸しのような食感に濃厚な豆乳の味がして、大変美味しい。ボク専用!

読んだレシピには味付けザーサイを入れると有ったので入れた。すると、調味料の味が溶け出し、まるでレストランのような味になった。
レストランと言っても頭にファミリーと付くレストラン味だけど。

トコットのバンパーを取り替えた

車の後ろをぶつけてしまったので(スミマセン)、壊れたバンパーを交換した。と言っても、Yohooオークションで適合する中古部品を買って、文字通りプチプチと外して付けただけ。簡単なものだ。(安くはなかったけど)

バンパーと言えば私は小学生の頃、車に詳しい友達に、車のボディ全てをバンパーで作ったら衝突しても壊れない車が出来るのではないかというアイディアを語った事がある。しかし、彼が言うには「そんなの重くて走らない」との事だった。
そうなのである。昔の車のバンパーは厚い鉄板を折り曲げて出来ていてとても丈夫だけどとても重くもあった。

それに比べると今の車のバンパーはペナペナのプラスティックだ。軽いのはよいのだけど衝突の衝撃から車を守るという機能は殆どない。
どちらが良いのかは一概には言えないが、でもこんなにペナペナならば、いっその事車全体をゴムとかウルトラマンの表面とかのように柔らかくしてくれれば良いのにと思ったりもする。少なくとも、よく車を擦ったりぶつけたりする自分としてはそっちのが嬉しい。

因みに今回の経験で解った事として、どうもバンパーにヒビが入ると車の走りが変わるらしいというものが有る。具体的に言うと割れている方がスピードが出る。
理由は、上の写真だとヒビは手で押し込めてあるのでわかりにくいが、ヒビはタイヤハウスの上に有り、ここから空気が抜ける事が空力に良い作用をしていたからなのではないかと想像する。

しかしまたこれには、傷の入った車を走らせることの心理的作用もあるのかもしれない。傷を人に見せびらかしたくて無謀な運転をする心理だ。もちろんこれは無意識下のものであり、この手の欲望は前頭葉が抑えているものなのだけど、トコットのアクセルペダルは敏感なのである。

平和なのが望み

ブログの更新についてはずいぶん間が空いてしまった。この間、書くことが何もなかったのかというとそうでもなく、お陰様で仕事はずっと春夏冬中(商い中)だったし、そうすると当然いろいろなことも有る。

例えば、この間は仕事中に自分の車をぶつけてしまい、精神的にショックを受けた。
そんな自分を元気づけようと帰り道に海に寄った。
そこの売店でビリヤニ(スパイスで味付けをした美味しい炊き込みごはん)を注文したら売り切れだった。それは前から食べたいと願っていたものなので大変残念に思った。
仕方なく、せめて貝でも採れたら慰めだと浜辺で穴を掘ったのだけど、食べられる貝は出てこない。
ふと我に返り周りを見ると、自分のようにスーツに革靴で海に来ている人は誰もいないかった。

という具合で、ことブログのネタについては事欠かない。もともと自分は物事が出来ない割に色々勝手な妄想はするタイプなので、傍から見ると人生まるで落語なのである。

だがしかし、ここ最近の世界情勢をみるにつけ、自分のそうした日常は全くくだらないものだと思えてしまう。本当にどうでもいいと思う。

とは言え、ほとぼりが冷めたらまたくだらない日常の感覚に戻るのかもしれない。いや、戻って欲しい。自分のことばかり考えるのは良くないけれど、でも自分の手の届く範囲で自分のことを存分に考えて笑って暮らせるのは平和の恵みだ。

IKEAのペッパーミルを買った

IKEAのペッパーミルを買った。

それまでは写真は向かって右に写っている業務スーパーのミル付き胡椒を使っていた。この瓶には蓋の所にミルが付いていて、買ってきたらそのまま胡椒挽きとしても使える。
ただ、このプラスティック製のミルは壊れやすい。
実はこの商品には詰替え用に中身の胡椒だけも売っているのだけど、詰め替えたことは一度もない。最初の瓶の中に入っている胡椒を使い切る前にミルが壊れてしまうからだ。
仕方がないので新しいミル付き胡椒を買って蓋だけ取って使いかけの瓶に付けていた。
なので、まだ使っていない胡椒ばかり溜まってしまっていた。

という訳で&安かったので、IKEAで前から欲しかったペッパーミルを買った。
IKEAは建物のサイズが大きく広い為か、サイズ感が狂いがちだ。何を買っても家に持って帰ってみると案外大きかったと感じる。このペッパーミルも例外ではなく、サイズは意外と大きくて、野球のバットとBICの4色ボールペンのちょうど中間位の大きさである。

臼の刃はセラミック製で、ちゃんと粗さの調整ネジも付いている。
最も細挽きにすると粉になるのだけど、特にこの細挽きにした挽きたての胡椒の味はピリッと辛く香りもとても良く美味しい。アカシア材の手触りを感じながらゴリゴリハンドルを回すのも楽しくてついかけ過ぎてしまう。

ポンペイ展に行ってきた

東京国立博物館で開催されているポンペイ展に行ってきた。ポンペイと言えば火山灰に埋まった犠牲者の形を写し取った石膏像が有名だが、それは会場にも一点展示されていた。その他主な展示は絵画や石像、ブロンズ像、また装飾品や日用品等。

人は同じようなものについては差を鋭く認識するが、逆に違うものについては自分の知っているものと同じ所を認識する癖がある。なので、古代ローマ時代の商業的に栄えていた都市と今の自分達の生活が全く同じだと感じるのは多分に錯覚だと思う。しかし、ひと目見て用途が解り、そして今でもそのまま使えそうな位綺麗な発掘物の展示を見ていると、縄文式土器を見るよりむしろ親近感を覚えた。
例えば、下の写真の地面に有るのは猛犬注意の図案で、実際に当時のポンペイで使われていたマークだ。何と、犬はちゃんと首輪で繋がれている。

自分が子供の頃、ポンペイでは噴火の予兆が有ったにもかかわらず人々は逃げず、噴火の日にはみな死んでしまった。みたいな話を散々聞いた気がする。しかし、実際に犠牲になったのは住民の一割位で他はちゃんと避難していたらしい。